音楽図書館協議会:Music Library Association of Japan


Music Catalog Clinic

共同体・協力・珈琲マグ:MOUG(OCLC音楽ユーザーの会)25年の使命
H.スティーヴン・ライト 北イリノイ大学
MOUG Newsletter no. 83, 2003年5月
・Community, Collaboration, and Coffee Mugs: The 25-Year MOUG Mission
H. Stephen Write, Northern Illinois University
MOUG Newsletter No. 83, May 2003

ぼくがはじめてMOUGとかかわりを持ったのは、1983年冬のある寒い日のことだった。当時インディアナ大学図書館スクールの学生だったぼくは、その日、大学の音楽図書館員や音楽図書館学コースの学生たちと、フィラデルフィアで近々開催される音楽図書館協会大会に車で出かける相談をしていた。早めに出発してMOUG大会にも参加してみようか、と誰かが言った。MOUGについて何も知らなかったので、ぼくには<Moog ムーグ>と聞こえた。それで思いつくのは、シンセサイザーの人気機種くらいだった。なにやら不思議なその存在、どんな価値があるのかと一瞬とまどったが、「何としてもMOUG大会に出席すべし。MOUGはMLAよりも重要だ。」というラフル・パパキヤンの一言でぼくの迷いはすぐ解消した。

残念ながら、その年のMOUGには出席しないで終わった。貧しい院生の身分では、MOUG出席に必要なホテル宿泊代まで捻出できなかったからだ。それどころか、費用を節約したかったぼくは、フィラデルフィアまでグレイハウンド・バスで出かけ、MLAが始まった後、ようやく到着する始末だった。(以後グレイハウンド・バスの旅は願い下げにした。)

はじめて出席したMLA大会では、いささかくじけたし、がっかりもした。この感覚は、ここ10年くらいのMLA参加者にはわかりにくいかもしれない。MLAは1983年頃とまったく違う組織に進化を遂げたからだ。現在のMLAは、居心地の良い、新人に優しい団体で、新しい会員がすぐ関われるような機会がたくさん用意されている。しかしぼくが参加した当時は――白髪混じりで、ツィードのジャケット(肘宛が付いたタイプ)を着こんだ紳士たちが、パイプ片手にマショーだのジョスカンだのについて話している――MLAはそんな団体に見えた。自分が図書館スクールで学んでいることとあまりにかけ離れたその雰囲気に、ぼくはここでいったい何をすればいいのだろう、と途方に暮れた。

結局ぼくは、1985年までMOUG大会に参加しなかった。1983年秋に就職はしたものの、そこは小規模単科大学で、図書館員を大会に出張させることなどあまり歓迎しない職場だった。1984年のMLA大会にはどうにか出席できたが、なんとその年、MOUGはMLAと別々に大会を開催した。「一つの大会への参加だって認められるかどうかギリギリのところだ」と、上司はぼくに言った。というわけで、翌1985年になってようやくぼくはMOUG大会に出席できた。(上司は文句を言い続け、参加を1年おきにできないものかとぼくに言ってきた)。

MOUG大会はまさに新天地だった。ここでは皆が、ぼくの仕事に関係ある話をしていた。この会議でぼくは、当時MLA大会の全体会議でよく取り上げられていた音楽学的なトピックスではなく、Mozart, Wolfgang AmadeusとMozart, Johann Chrysostom Wolfgang Amadeusを、カード目録上どう折り合いをつけるか、大きな字でディジタルと書かれたLPをどう扱うか、OCLCの検索でノーヒット、あるいは結果が多すぎるような時、どうやったら見つけられるか、などの話題に接することができた。

OCLC端末の使い勝手は、今から思えば、怒り出したくなるほど原始的だったが、当時のぼくらにはほとんど超常現象に思えた。端末は巨大な鋳型鉄製で、画面には、明るいグリーンの文字が宇宙空間のような暗い地色の中に浮かんでいた。文字はそれまで見たことのない、風変わりでバランスの悪いフォントだった(その後も見たことがない)。時々、「投票中」という赤い文字が点滅すると、それは端末がオハイオ州ダブリンと呼ばれる神秘に包まれた場所のマスター・コンピューターと交信していることを示しているのだった。そして、当然のことながら端末のスピードは、実に...実に... ノロかった。検索を始めたと思うと、しょっちゅう「しばらく後でもう一度」と返ってくる。これは、システムが何らかの結果を出すまでの間、一息入れてコーヒーが飲めるという意味だ。本当に遅い場合のメッセージは、「15分後にもう一度」とか「30分後にもう一度」である。これが出ると、事実上、数時間何の反応も期待できない。(1980年代前半、OCLCがコンテストを開催して、OCLCバッジにつける標語を募集した。同僚たちは、「30分後にもう一度」と書いて応募した)。

そんなこんなで頭の痛いこともあったが、ぼくたちはOCLCが大好きだった。OCLCが、ほんとうに大事な仕事をしてくれたからだ。目録カードの印刷である。ぼくがこの職業に就いたのは、各館の館員が自分たちでタイプを打ったり、LCからカードを購入して行なう目録業務がちょうど変わりはじめる頃だった。だからぼくは、非常にローテクな作業の一部、たとえばカードのシートを戦艦に似た灰色の巨大なコピー機でコピーして、それをギロチンのようなカッターで切り離していく作業を体験した最後の世代である。ぼくは、基本記入カードを何枚もコピーして、その上部に副出記入をタイプ打ちするという作業も知っている(この作業は、布リボンの付いた手動タイプライターで作業するのが普通だった。件名標目を赤字で印字するためだ)。OCLCのすばらしいところは、こうした驚くほどつまらないもろもろの作業を一掃したことだ。プロデュース・キーを押せば、2週間後に、ファイル準備のできたピカピカのカードが箱詰めされて図書館に届くのだ。カードはあまり見かけないヤボッたい活字で印刷されていたが、そんなことはどうでもよかった。とにかくすべてきちんと完成していた(驚いたことに、OCLCが件名標目を赤字で印刷できないことに文句を言う人もいた)。

1985年、ぼくは北イリノイ大学に職を得た。ここでは専門団体への関与が奨励されていたので、ついにぼくは実質的にMOUGと関われることになった。まずはプログラム委員会に名乗りを上げたところ、心やさしいローラ・シュナイダーがぼくを指名してくれた。(ぼくがどういう人間かほとんど知らなかったのにもかかわらず)。1989年にはこれまたどういうわけか、研修継続コーディネータに選出された。そこでもっぱら、レセプションに食べ物をどれくらい用意するか、会議室に椅子をいくつ入れておけば足りるかなど、図書館スクールでは教わらなかったことばかり担当する羽目になった。この時期、ぼくがやった主な改革は、昼食会をやめて自分で自由に飲み物等を注文できる形式のレセプションに変更したことだ。おそらく皆、一時間一か所に座っているよりも、歓談しながら(飲む)ほうが好みだろうと思ったからだ。

ぼくが理事会メンバーに加わったのは、MOUGの重要な時期で、組織は存亡の危機にあった。ぼくがはじめて参加した頃、MOUGはOCLC、並びにOCLCが定める諸々の制限と闘っていて、それが多くの音楽カタロガーたちの主要関心事だった。ところがぼくが理事に選出された時代になると、OCLCは言わば安定期に入っていて、当初の問題(たとえばレスポンスタイムの悪さなど)はすでに改善されていた。MOUGは、厳密にいえばOCLCと直接関連しないプログラムを組んで、その存在意義を保ち続けようとしていた。そこで、当然予想された(なおかつ不当とは言いがたい)批判――「MOUGは<小型MLA>になろうとしている」――を招く結果となった。自分たちの組織を本来の使命に戻すのは、今や難問であった。なぜなら、MOUG大会にもはや「同病相哀れむ」的要素はなくなっていたからだ。この頃MOUGは、あまりに目録中心すぎると批判されるようにもなっていた。そこで、レファレンス・サービス部会を設置して、批判にこたえることにした。残念ながら、この委員会は何年もの間、開店休業だった。

もう一つ困った問題があった。この時代、各図書館はちょうどローカル・オンライン・システムにまき込まれつつあった。初期の頃、システムは問題山積で、各館はローカル・システムにかかりきりとなった。多くの図書館が、ノースウェスタン大学の開発したNOTISシステムを導入しようとした時代で、一時はNOTISが図書館界を飲みこみそうな勢いだった。ぼくたちが企画したある年のMOUG大会が終わった後、アンケートで「もっとNOTISユーザーのニーズに会議の焦点を絞るべきだった」という意見が匿名で寄せられた。まったく信じがたい!ぼくたちはOCLC音楽ユーザーグループなのに、事実上「OCLCのことで時間を無駄にするのはやめよう」とぼくたちに向かって言うとは、なんということだろう。

1992年で任期が終了した後、ぼくは何年かMOUGと関わることなく過ごした。ただ、指名委員長として、わが師匠、ラルフ・パパキヤン氏にMOUG議長立候補を働きかけ、説得した(嬉しいことに氏は議長選に勝利した)。1996年、ぼくは首に縄をつけられてMOUGに引き戻された。キャンディ・フェルトがぼくを議長に指名してもよいかと言いだし、ぼくはまぁ選挙で勝たないこともあるかもしれないと自らを慰めたものの、やはり当選してしまった。

OCLCはその何年かの間に、非常な変化を遂げていた。今やOCLCの主要な関心事はレファレンス関連商品であり、目録関係は従属的な立場に追いやられていた。議長だった期間、OCLCユーザー・カウンシルの会議に出席するまで、ぼくはそのことを完全には理解していなかった。(世間知らずのぼくは、その会議でMOUG代表としてロビー活動ができると思い込んでいた。会議に出席して、「オブザーバー」たちがユーザー・カウンシル代議員から遠く離れた席に押し込められるのを目撃して、希望ははかなく消えた)。会議の間ずっと、OCLCのレファレンス・サービスが大迫力で宣伝され続け、目録についてはほとんど何の話も出なかった。瀕死の状態にあるMOUGレファレンス・サービス部会の出番だ、とぼくは考えた。

もう一つ、OCLCがいかに大きな変化を遂げたかを目の当たりにしたのは、オハイオ州OCLC本部でMOUG理事会が開催された時のことだ。ぼくがOCLCを訪れるのは、二度目だった。OCLCの建物見学ツァーがあり、OCLCのメインフレーム・コンピュータが置いてあるだだっ広い地下室も、見学コースに入っていた。ほぼ10年前、ぼくは同じ部屋を見たことがあった。昔のジェームス・ボンド映画さながらの巨大コンピューター・コンソールの列、列、列。中でテープがクルクル回っていた。今回見たその部屋は、ほとんどがらんどうで、リノリウムの床に、かつてコンピューターが置いてあった跡だけが残っていた。ツァーガイドは、冷蔵庫くらいのユニットが三つばかり並べてある場所に我々を案内して、ここにOCLC WorldCatの全データベースが入っていると説明した。それはダースベーダのように真黒で、赤と緑のランプがチカチカしているだけ。何の音もしなかった。10年後、もう一度OCLCを訪れる頃には、機械はニンテンドーのゲームボーイくらいになっているにちがいない。

ぼくたちの任期は、ぼくが議長予定者、カレン・リトルが議長の布陣で始まった。その年は、終わったばかりの大会参加者がひときわ多かったため、MOUGの口座残高がちょっぴりプラスになった。そのお金を何に使うか話しあった時、MOUGメンバーの永年にわたる忠誠に対して景品を用意することをすぐに思いついた。思いついたが、最初誰にも言わなかった。ぼくの仕事人生において、カレンは、「ピノキオ」に登場する<旅人こうろぎのジミニー・クリケット>だ。何か大失敗をしそうな時、はっきり言ってくれると信頼しているのはカレンだけだ。それが真の友人というものだ。で、カレンはこんなふざけたアイディアを認めるはずがない、とぼくは思った。そこで彼女が理事でなくなるのを待って、MOUGのロゴ入りマグカップを作り、贈ったというわけだ。このマグカップは2000年ルイスヴィーユ大会のちょっとしたヒットではあったが、カレンが許してくれたかどうか、今でもちょっと心配だ。

マグカップで思い出した。もう一つ忘れてはいけないことがある。MOUGのあの美しいロゴのことだ。このロゴマークは、フランキー・フライという優れたグラフィック・デザイナーが制作した。 音符記号、ピアノの鍵盤、コンピューターの電子回路をエレガントなデザインにまとめていて、今でも全然古くなっていない。図書館界広しといえども、MOUGほどのロゴを持っている団体は他にない、といっても決して過言ではない。

任期中、OCLCに対してぼくがカンカンに怒るという出来事があり、理事時代は個人的にも忘れられないものとなった。ぼくは気楽な人間で、何に対しても誰に対してもめったに怒らない。だからこれは、実に珍しい出来事だった。その頃、OCLCは新型インターフェース、FirstSearchを導入した。これはそれまでの物とまったく違っていた。ほとんどの面で実にエレガントで、よくデザインされた製品だったが、たった一つ、音楽図書館員にとって心底いらつく特徴があった。いつでも本タイトル(245フィールド)が表示レコードの一番上に来るため、基本記入が個人名の場合(音楽作品の場合ほとんどそうなる)、その名前がレコードのどこかに埋もれてしまう。FirstSearchは事実上、基本記入という概念を放棄し、目録規則に準拠できなくなってしまったのだ。そこでぼくはMOUG会員を代表して、この問題について苦言を呈すべく、礼儀正しい手紙をOCLCあてに出した。ところが、OCLC代表からの返事は、「あきれて物が言えない」ものだった。なんとOCLC側は、「FirstSearchは図書館員向けではなく、利用者向けにデザインされているから」と書いてきたのだ。唖然呆然。ぼくは実際に図書館で働き、ホンモノの利用者に毎日会っている!OCLC本部は、オハイオ州コロンバスの高級郊外地に建っている巨大なガラスの石柱ではないか!近所に図書館なんて一つもない。そのOCLCの従業員に、なんでこのぼくが「利用者のニーズ」について説教されなければいけないのだ。(後日談:このスピーチをした後で、OCLCのデブ・ベンディグ が基本記入の問題をまた考えてみようと言ってきてくれた。)

この事件はぼくに、ともすれば忘れがちな大切な何かを思い出させてくれた。それはMOUGが、OCLC製品を使う音楽図書館員の利益代表として働くという、非常に重要な使命を持っているということだ。もちろん、OCLCが永年MOUGにとてもよくしてくれたことを忘れることはできない。OCLCはMOUG理事会を主催し、大会費用の多くを負担し、ジェイ・ワイツというすばらしいリエゾン(連絡役)を置いてくれた。つまり、全体として非常に協力的で、いつもぼくたちをサポートしてくれた。それでも、ぼくらはユーザーとしての立場から、時としてOCLCと対峙する必要があることを忘れてはいけないと思う。これは決して「飼い犬が手を噛む」類のことではない。これこそが、ぼくたちの使命なのだ。MOUGは決してこの使命を見失うことはない、とぼくは確信している。だからこそ、ぼくは今までMOUGの忠実な会員だったし、今後も会員であり続けるつもりだ。

2007年8月20日 翻訳




 

 

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