音楽図書館協議会:Music Library Association of Japan


Music Catalog Clinic

・MOUG 最初の25年: 思い出すこと 経験したこと
・ジュディ・ウィーダウ テキサス大学オースティン校
 MOUG Newsletter no. 83 2003年5月

・MOUG’s First 25 Years : Memories and experiences
 Judy Weidow, University of Texas at Austin
 MOUG Newsletter No. 83, May 2003

数年前のことです。一人の老人がオースティン公共図書館にちょくちょくやってきました。老人は、目録に少しでもおかしな点を見つけると、その度にカウンターまで言いにきて、図書館員たちを悩ませました。そうこうするうちに、その老人は元カタロガーで、コロンビア大で働いたこともある人物だとわかりました。テキサスで生まれ育ったから、引退後、テキサスに戻って来たというわけです(テキサス人をテキサスから引き離すのは、図書館員を図書館や書店から引き離すと同じくらい難しい)。そこで図書館員たちは、ボランティアとして目録部署で働いてはどうか、と老人に勧めてみました。老人はしばらく考えてから、こう尋ねました。「ここでは、コンピュータを使っているのではないかな」。使っていると答えると、老人は言いました。「わたしは、羽ペンしか使わないことにしているのでね」。

さて、前世紀のお話です。1960年代後半、音楽修士を得た私は、この人生何をして生きていくか、そろそろ決めなくてはと思い、こんな風に自問自答しました。「一日中有線放送を聞かなくてよくて、(当時はどこへ行っても有線のMuzakが流れていました)、一日中タバコの煙を吸い込まなくて済む(当時、喫煙は制限されていなかったので、皆プカプカやっていましたが、私はすでに禁煙していました)、そんな職場はないかしら」。そして、閃いたのです。そうだわ、図書館で働きましょう!

それからしばらくして、友人と一緒にランチを食べていた時のことです。図書館の学位を取るため、近々大学に戻ろうと思っていると話したところ、友人が言いました。「あら、図書館員だった友達がいるわ。最近退職したばかりよ。電話してみたら」。電話してみたところ、図書館は最高の職場、とその女性は太鼓判を押してくれました。当時私はシカゴに住んでいたので、そこから通える図書館スクールは、ロザリー・カレッジとシカゴ大学の二つだけでした。どちらがよいと思うか、訊いてみました。「そうね、シカゴ大学は、ばかばかしいコンピュータの科目がたくさんあるけれど、あんなもの、私に言わせれば時間の無駄です。ロザリーに行けば、図書館の実務をしっかり学べますよ。」

私はサッサとロザリーへ行きました。私は、音楽カタロガーになりたくて図書館スクールに行ったわけではありません。カタロガーが何をするかさえ、知りませんでした。ただ、図書館で働きたい、そこなら有線放送とタバコの煙から逃れられるだろうと思って、図書館スクールに通っただけです。ロザリーには、目録の必修科目がありました。1972年秋、授業初日教室に入って行った時のことは、今でもはっきり覚えています。真新しいAACR[英米目録規則](1971年版)を手に、クラス全員が席に着いていると、先生が入って来ました(御年80歳くらい)。先生はなにやらひどく取り乱して、こう言いました。「この目録規則は、すべて時代遅れになりました。米国議会図書館が、<アイ・エス・ビー・ディー(ISBD)>と呼ばれるモノを策定する準備にとりかかった、とたった今聞いたところです。私もこれから、皆さんと一緒に、ひとつひとつ勉強していかなければなりません」。目録の世界に誘われるのに、これは最高の導入でした。なぜなら、目録規則とは「これですべてマスター、理解した」と思っていると、突然変わってしまうものだからです。目録における最高の<やりがい>は、こうした規則変更に追いついていくことです。

ロザリーは、結果的によい選択でした。ドン・ロバーツが教える、すばらしい音楽図書館学コースがあったからです。彼は当時、ノースウェスタン大学音楽図書館長の職にありました。音楽図書館の仕事にまつわるさまざまな不思議ついて、まさに最高の人から直接話を聞きながら遅い午後の一時を過ごせた私は、ほんとうにラッキーだったと思います。

1973年にロザリーを卒業しましたが、図書館員は供給過剰の買い手市場、仕事を見つけるのは大変でした。それこそ、四方八方へ願書を送りました。ある日、ドン・ロバーツが、楽譜の再分類プロジェクトを手伝わないかと、声をかけてくれました。1970年代、多くの図書館でデューイ[デューイ十進分類]からLC[米国議会図書館分類]へ、請求記号のつけ直しが行なわれました。70年代! なつかしいですね。その頃、OCLCはまずオハイオ州内の機関を結んで、目録作業を共同化する方法をさぐっていました。それ以外の図書館では、まだ電動タイプライターとホワイト(修正液)の大量消費時代でした。私はこの2年間、ノースウェスタン大学で音楽資料目録を実地で学びながら、再分類プロジェクトの仕事をするという、至福の時を過ごすことができました。その間も、願書だけは大量に発送し続けました。
ノースウェスタン大学の再分類プロジェクトの工程は、次のようなものでした。棚から楽譜をとりだす――カードケースからその目録カードをセットでひきぬく――LC番号を付与する――カード上の古いデューイ番号を消す(このために、なんと電動消しゴムが大量に用意されていました)――カード一枚ずつに新番号をタイプで打つ――楽譜に新番号を書きこむ――全ての作業を点検する――楽譜を棚に戻す――カードをファイルし直す。2枚以上の連続カードがセットになっている場合は、カード穴に紐を通して結んでありました(ライト・ノッド結びで)。こうした仕事に、総勢5人のスタッフが必要でした。現在、請求記号を変更する場合とくらべてみてください。今なら、コンピュータに向かい、古い番号を消し――新番号入力して――ラベルがプリントアウトされるのを待つ間に資料を見つけ、ラベルをペタリ。これで終りです。まさに、コンピュータとはありがたきかなです。

1976年秋、ついに私は、テキサス大学オースティン校で音楽目録の仕事に就くことができました。その頃には、音楽目録の仕事が天職と思うようになっていました。初出勤の日、案内された私の机には、新品の電動タイプライター、私専用のAACR、ISBN句読法を貼りこんだ新6章、LCの冊子ユニオン・カタログ楽譜・レコード篇(LC目録カードを並べて印刷したもの)、そしてMARCフォーマットと呼ばれるものが置いてありました。OCLCはすでに全米に展開していて、テキサス大学でも、単行書はOCLCを利用していました。でも、楽譜とレコード用のMARCフォーマットは、特別委員会がまだ検討を続けていました。私たちの図書館では、MARCフォーマットが音楽資料で使えるようになるまで、音楽資料にOCLCを利用するのは見合わせていました。別に私はそれでもかまいませんでした。作業シートにタイプで打ちこみ、それを館内カード作成部門に渡すという仕事が、私の楽しく日課となりました。

ここで、1976年頃をちょっとふりかえってみましょう。当時は、パソコンも、オンライン目録も、E-メールも、インターネットも、CDも、ビデオ録画もありませんでした。テレマンの主題目録も出版されていなかったし、今では音楽カタロガーたちの力強い見方としていわば定番となっている、スミラリア(Richard Smiglaria)、ジェイ・ワイツ(Jay Weitz)、ラルフ・ハートソック(Ralph Hartsock)らの参考図書類も、まだ出版されていませんでした。

私は、コンピュータ初対面で、いきなりこれを使いこなすことになりました。(賢明にも、コンピュータの勉強に時間を浪費する図書館スクールに行かなかったもので)。目録部門に5、6台並んだOCLC端末で、とにかく検索方法をマスターしました。70年代後半のことです。レスポンスにあまり時間がかかるので、OCLCの仕事をする時は、だれもが、本や新聞を側らに置いていたものです。OCLCは、使えない時間もたくさんありました。目録部門ではOCLC業務を、午前8時以前か、午後4時以降に組むようにしていました。その方がシステムへの負荷が少なくて、レスポンスが多少よかったからです。
検索は、短縮キーによる方法のみでした。(個人名は、3,1文字、人名+タイトルは、4,4, タイトルは3,2,2,1文字を入力して検索する)。あの当時、統一タイトルは索引化されていなかったし、028検索(レーベル番号、出版者番号などからの検索)もできませんでした。楽譜か録音資料かなどの資料種別も効かないし、発行年による制限もありません。さあ、想像してみてください。皆さんの中には、思い出がよみがえってくる方もいらっしゃるでしょう。ハイドンの交響曲を検索するとします。 hayd,sympと入れて、ノロノロコンピュータで検索するのです。入力したら、待つ。ただ待つ。ひたすら待つのです。突然、いくつも画面が出てきます。私の記憶が正しければ、簡略表示の情報はあまり多くありませんでした。たしか、著者、タイトル、出版地、出版年(出版者はありません)でした。検索結果が多すぎると、システムが対応できないこともありました。最初の頃は、256件が限度でした。あの頃、重複レコードがやたらに多いのは、そのせいです。システムが対応してくれないので、新規レコードを入力するしかなかったのです。1980年には、枠は256件から1500件に拡大され、出版年や資料種別による制限もできるようになりました。ずい分よくなりましたが、問題がすべて解決されたわけではありませんでした。
ある図書館(ライス大学)が、ハイドンの交響曲第1−12番の楽譜検索について調査した記録が残っています[MOUGニュースレター]。その楽譜には出版年がなかったので、hayd/symp/scoと入力するしかありません。751件ヒットし、金曜日の午後、83回のコマンドで40分かかって、夜7時、ようやくOCLCにはこの楽譜の書誌レコードがないという結果が出たそうです。

私がはじめてMLA[米国音楽図書館協会]大会に出席したのは、1977年のことでした。ナッシュヴィルで開催されたその年、全員でグランド・オール・オブリーのカントリー・ミュージック演芸ホールに行きました。ある晩、レノーア・コーラル(Lenore Coral)の呼びかけで集会がもたれました。OCLCを使っている音楽ユーザーを組織化できないか、そう考えた人々の集まりでした。そこで強く主張されたのは、書誌ユーティリティーにおける音楽カタロガーのニーズをいちばん伝えることができるのは、使っている本人たちだ、ということでした。信じられないかもしれませんが、当時、これは斬新な考え方だったのです。テクノロジーの夜明けでした。実際、私の知る限り、MOUGが、OCLC最初のユーザーグループでした。その当時、カール・ヴァン・オースダル(Karl van Ausdal)をリーダーとする、OCLC 音楽特別委員会(Music OCLC Tasc Force)が活動していました。楽譜、録音資料用MARCフォーマットを完成させることが任務でした。この特別委員会のメンバーの中に、メアリ・ルー・リトル(Mary Lou Little) とオルガ・バス(Olga Buth)がいました。そのうち委員会の仕事は終了して、次は、<OCLC音楽ユーザーの会> が実際に稼動させ、改良し、そして――これがいちばん大切なことですが――いろいろなガイドを作って人々に教え、私のようなカタロガーの疑問に答えていくことになりました。フォーマットは、あまりに荒削りでした。指示書はひどく薄っぺらで、私自身、最初この仕事にとりかかった時、ちんぷんかんぷんで、途方に暮れたのを覚えています。今のマニュアルは8センチくらいの分厚いものですが、できた当時は2,3枚のペラペラだったのです。

カール・ヴァン・オースダルが、最初のMOUGニュースレターを発行し、第一回大会を組織しました。1978年のことでした。会議日程は、ボストンで開催されたMLA大会直前に設定されました。イーストマンのカレン・ハグバーグ(Karen Hagberg)が初代代表に選出され、カール・ヴァン・オースダルが継続研修担当コーディネータ、オルガ・バスが副議長(旧特別委員会メンバーだった彼女は、ちょうどオハイオ州からテキサス大学オースティン校に就職したばかりでした)に決まりました。カレン・ハグバーグはまもなく他の仕事に移ったため、選出後の任期は短く終わりました。替わってオルガが議長に就任して、ラルフ・ パパキアン(Ralph Papakian)を副議長に指名しました。このオルガがMOUG号を離陸させ、初年度MOUG活動の原動力となりました。オルガを覚えている方は、おわかりでしょう。彼女は決して、「引っ込み思案」ではありませんでした。まさに、この仕事にうってつけの人物でした。彼女は二足のわらじを履いていました。写真と音楽図書館の仕事です。両方とも、私は強い影響を受けた、と言わざるをえません。彼女はパワフルで、しっかり意見を持ち、物事をやりとげるタイプでした。MOUGが離陸して、きちんと航路に乗るまでに、やらねばならないことはたくさんありました。彼女の事務室に行くと、よくニュースレター編集者と電話で話していました。「パム、すぐニュースレターを出さなきゃいけないの、今すぐによ!」。記事が必要になると「ジュディ、次のニュースレターに記事が要るの。何か書いて。今すぐにね!」とよく私にも言ったものです。最初のニュースレター編集者は、パメラ・スター(Pamela Starr)(ウィスコンシン大学マディソン校)、次はラルフ・パパキアンとスー・スタンク(Sue Stancu)でした。あっというまにニュースレターは、音楽カタロガーのための最新情報とニュースの発信源となりました。最初から、ものすごく実用的な情報が満載でした。

MOUG第一回大会のハイライトは、カールとOCLC代表がみなの前で行なった公開の質疑応答でした。ヘレン・ヒューズ(Helen Hughes)が、初代のMOUG-OCLCリエゾンに任命されました。これが、25年にわたる音楽図書館員とOCLCの対話のはじまりでした。

第二回大会は1979年OCLC本部で開催され、タグ付けのためのワークショップが中心になりました。それから数年間、大会の中心は、このタグ付けのためのワークショップでした。日々フォーマットと格闘していた私たちにとって、ここで学び、質問に回答してもらうことが、いちばん大事な情報源となりました。音楽向けのマニュアル類が完備されるまでには、何年もかかったからです。

1984年まで一貫して大会で熱く議論された話題は、「いったい、いつになったらLCは音楽MARCフォーマットを採用するか」でした。結局、音楽MARCテープは1985年12月までロードされず、MOUG誕生以来7年が経過したのです。この間、LC目録に接するためには、マイクロフィルムで全米ユニオン・カタログを見るか、館によっては、LCカード目録の校正刷を見るかのどちらかしかありませんでした。

1980年サン・アントニオ大会の頃には、音楽図書館員の声がOCLCにも届くようになり、OCLCは、私たちの抱える問題を取り上げるようになりました。MOUG会員たちは、技を学び、腕を磨きはじめました。スミス・カレッジの音楽図書館員だったロバート・カミングハム(Robert Cummingham)が、OCLC初代品質管理兼音楽専門部署に配属されました。イリノイ大学ウェズリヤン校の音楽・美術図書館員だったグレン・パットン(Glenn Patton)は、タグ付けワークショップを指導してくれました。グレンはMOUGの第2代議長でもありました。OCLCは、たちまちグレンの能力に気づき、彼をOCLCユーザーサービス部門、目録課のインストラクターの地位につけました。そこで、デーヴィッド・ナップ(David Knapp)がMOUG議長を引きつぎました。その頃、リチャード・スミラリアはイリノイ大学で音楽目録の仕事を精力的にマスターしている最中でしたが、その彼がMOUG会計を引き受けてくれました。私はといえば、AACR2のトレーナーになる勉強をしていました。(AACR2は1981年1月2日に採択されました)。私は、自館でどのように使っていくかという仕事にかかりきりとなりました。

1980年、熱心に話しあわれたのは、音楽資料目録の遡及変換プロジェクトについてでした。このプロジェクトのねらいは、データベースをきれいにして(まだプレマーク・レコードがたくさん含まれていました)、年代によってはごっそり抜け落ちている書誌レコードのギャップを埋めることでした。プロジェクトの一環として、一部の図書館でデータベースのレコードに手を加えることが可能になり、<エンハンス=品質向上>ができるようになりました。このプロジェクトは、ニューヨーク市立カレッジのルース・ヘンダーソン(Ruth Henderson)の優れたリーダーシップのもとに始められ、のちにリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)が引きつぎました。このプロジェクトは、その後、<REMUS>という名前でよく知られるようになりました。これが発端となり、音楽データの品質向上が推進されるようになり、次第に共同典拠ファイルの必要が唱えられるようになりました。そして最終的に、これが現在のNACO Music プロジェクトまで進化したのです。遡及変換プロジェクトは、<エンハンス=品質向上>のシステムが現実化した後、1984年に発足しました。そして、1988年6月、インディアナ大学とイーストマン音楽院がNACO Musicプロジェクト(ラルフ・パパキアンがコーディネータを務めました)を通して、はじめてオンライン典拠ファイルにNACOレコード提供したのでした。

1981年音楽レファレンス担当たちが、OCLCをレファレンスにも使い始め、MOUGの年次大会にレファレンス部会も開催されるようになりました。

1981年の最大の話題は、AACR2がOCLCに与えた衝撃でした。新目録規則AACR2は、多くの作曲家と統一タイトルの変更をもたらしました。OCLCでは、大量自動作業でこれらの変更を行ないました。この1981年の大事業は、みごとにとりおこなわれました。ただ、多くの後処理が必要となり、その仕事はロバート・カニングハム、続いて、ジェイ・ワイツの肩に重くのしかかりました。ジェイがMOUGとのリエゾン、並びに品質管理部門の役目を担うことになったのは1982年です。<エンハンス=品質向上>がはじまる前の時代、品質の管理はどうやっていたかと言いますと、ユーザーがOCLCに変更願いを提出して、それをジェイが峻別していたのです。ジェイのユーザー向けOCLCレポートの中には、数ヶ月分もの変更願いの滞貨リストが載っていました。それは次第に何週間という単位になるまでかたづいていきました。

1984年、一台のデスクトップ型のアップル・コンピュータが本学(テキサス大学)整理部門に静かに登場しました。私たちは、コンピュータの周りに集まって、「上の人たちは、いったい何を考えているのかしら?」とか、「これを何に使えっていうのかしら?」と話したものです。ところがまもなく、私はコンピュータにやらせるよい仕事を思いつきました。ちょうどその年、私はMOUGの会計に選ばれていました。前任者のジョー・スコット(Joe Scott)(コネティカット大学)が、勇敢にも会計簿をワン・コンピュータ(Wang Computer)で作ったところでした。よい考えだと、私は思いました。私は電卓が苦手だったからです(1984年当時、電卓はありました)。しばしの間、互換性のない前任者のプログラムを見ながら、私はワードとエクセルの2つしかプログラムのないアップル・コンピュータの前にすわり、格闘しました。当時、私がいた建物でコンピュータについて知っている人は、たぶん2人しかいませんでした。私は、だれ彼つかまえては、スイッチの入れ方、立ち上げ方、プログラムスタートの仕方など、やってみせてもらいました。その後は、マニュアルを渡されて「がんばってね」と言われました。私は書架に行き、コンピュータの本を読みあさりました。ようやく、エクセルで経理プログラムを立ち上げる内容の本を見つけた私は、次の瞬間、キーボードをせっせと叩いていました。おおざっぱで、しかも使いづらいプログラムになりましたが、とにかく動いてくれたので、とてもワクワクしました。後任の会計担当には申しわけない気がします。多分、彼ら自身でもっとマシなプログラムが見つけてくれたことでしょう。

典拠ファイルのオンライン化は、1981年9月まで実現しませんでした。この時点で、ようやくLCの名称典拠ファイルがオンラインで使えることになりました。当時の検索制限数は、256件でした。その使い勝手は、想像できるでしょう?
名称典拠ファイルは次第に大きくなり、1983年にはファイルが見えない事態が発生しました。バッハが制限の256件を越えたので、名称典拠ファイルで、バッハ[の統一タイトル]にアクセスできなくなってしまったのです。当時、スキャン・サーチ機能はありませんでした。作曲者名の短縮キー “bach,joh,s”で典拠ファイルを検索するのです。しかも、統一タイトルには相互参照が入っていませんでした。ひたすらページをくって、さがしている統一タイトルにヒットするのを祈るだけです。あの頃は、音楽専攻の、できれば大学院生のアルバイトがほしい、と心底思ったものです。

The Best of MOUG[参考資料のタイトル]に似たものが最初に登場したのは、1983年11月発行のニュースレター紙上です。コネティカット・カレッジのフィル・ヤングホルム(Phil Youngholm)が、ヴィヴァルディの器楽曲統一タイトル(AACR2形)リスト(LC名称典拠に含まれる全タイトルに、ヴィヴァルディ・プロジェクトで作成したものを追加したもの)を掲載したのです。ヴィヴァルディ・プロジェクトとは、OCLCデータベースに含まれるヴィヴァルディの統一タイトルを、AACR2形に変更しようというボランティア・グループのことです。この作業が行われたのは、<エンハンス=品質向上>がはじまる前だったので、修正・変更はすべてジェイ・ワイツにレポートがまわされ、そこで更新作業が行われました。気の毒なジェイは、勤めた最初の年、膨大な時間を費やして、統一タイトルの更新を行ないました。1984年、多いにフラストレーションを感じていたユーザー、インディアナ大学のアン・マクグレーア(Anne Mcgreer)が、LCのMUMSデータベースから抽出したバッハの統一タイトル完全リスト(典拠管理番号付き)を、ニュースレターに掲載しました。その後まもなく、モーツァルト、シューベルトなど、制限256件を超える作曲家たちの統一タイトルリストが、次々ニュースレターに登場しはじめました。

MOUGが、ニュースレター紙上に典拠リストを掲載しているという話は、たちまち広まり、MOUGメンバー以外の人々が、リスト欲しさにバックナンバーを注文しはじめました。1986年、MOUG理事会は、すでに公開されていたリストの編纂・出版を決めるとともに、何人かの作曲家について新たにリストを作成・販売することを決定しました。他によいタイトルが思いつかなかったので、リストは、”The Best of MOUG”と呼ばれました。最初の2冊は、ニュースレター編集者だったアン・マッコロー(Ann McCollogh 今はアン・コールドウェル、ブラウン大学) が準備しました。3冊目で、アンは時間がとれなくなりました。1989年、理事会が私にこの仕事を引き受けてくれないか、と打診してきました。「もちろん、OKよ。」私は答えました。答えてから、どうやったらできるかを考えました。1989年当時、私はまだタイプライターを使っていました。ご記憶ですか?1976年に就職した時に使いはじめた、あのタイプライターです。私はまだ、シートとメモを元に、うれしそうにタイプを打っていたのです。その頃には、目録部門に新しく2台MACが増えていました。小さな画面付きでした。幸いなことに、当時まだ視力は良かったのです。アンが、パソコンのワード・パーフェクトで作った第2版のディスケットを1枚、送ってくれました。当館のMACはワードが使えました。すぐコンピュータ部門の人を見つけて(その頃までには、大学でコンピュータ要員は若干増えていたので)、ディスケットの中身をMAC ワードに変換してもらいました。私はこの<The Best of MOUG>の作業をやりながら、Wordの使い方をマスターしました。<The Best of MOUG>のそれまでの版には、作曲家が6人含まれていました。理事会は私に、それを増補してほしいと言ってきました。私は、スラヴ系言語の統一タイトルに英語形の参照を追加しました。その後の版では、作曲家を追加しました。全部で5つの版を作りました。ひとつ終わるごとに、作業は楽になり、覚えることも減っていきました。第6版に取りかかる頃には、私のパソコンの画面も大きくなりました。3版から5版までは、すべてあのちっぽけな画面のMACで作業したのです。

1989年に第3版を完成した頃、Eメールはまだありませんでした。第3版は印刷され、89年7月には、発送準備が整いました。しかしそこでとまってしまい、本当にイライラしました。11月のニュースレターにお知らせが出るまで、誰にもそれが伝わらないのです。ニュースレターが発行されると、第3版は飛ぶように売れていきました。第4版が出たのは、ちょうどEメールとMLA-L(メーリングリスト)がはじまった頃でした。MLA-Lにお知らせを出すと、1週間で注文が入ってきました。Eメールの威力を実感した最初の瞬間でした。Eメールがなかった時代は、何かコミュニティーに知らせるのに4ヶ月かかったのです。MLA-Lができてからは、一瞬で伝わるのです。
メーリングリスト、MLA-Lは世の中を変えました。私たちは、もはや陸の孤島で目録やレファレンスの質問と闘わなくてよくなったのです。ある日突然、私たちはコミュニティーのエキスパート、その道の達人たちと、いつでも話ができるようになったのです。

MOUGが生まれた頃のOCLCレコード数は、200万から300万の間でした。今では5100万件です[2003年当時の数。ちなみに2008年1月、約9600万件]。この25年間、OCLCとLCが今日ある位置に到達するために、MOUGがどれほど貢献したか、実に計り知れないものがあります。私たちが成しとげたことを、ふりかえってみましょう。私たちは、いつも自分たちのニーズを明確にして、それを実現してきました。OCLCカード作成からオンライン目録、OCLCオンライン典拠ファイル、AACR2、遡及変換、数え切れないほどの検索方法改良、データ品質改良、品質改良方法の向上、NACO Musicプロジェクト、詳細な利用マニュアル、そして、その解説書であるジェイ・ワイツの<Music Coding and Tagging>などなど。そして、現在のOCLC Connexionでは、データのサイズ制限は無限となりました。次はいったい何を考えだすのでしょう?これから25年後、みなさんは何を話題にしているのでしょう。私には想像もつきません。

私たちはみな、心から感謝しています。常に何が問題を明らかにして、問題と取りくむ方法を考え出してくれた賢明なる音楽図書館員たちに。力強いMOUGのリーダーシップに。そして、OCLC音楽関係部門の代表を務めてくれたグレン、ロバート、そしてジェイ・ワイツに。彼らがいたからこそ、優先順位が確保され、私たちの関心事がOCLCに伝わったのです。また、たとえ私たちが望むほどスピーディーではなかったにせよ、OCLCが私たちの声を聴き、解決を心がけてくれたことに対しても、私たちは感謝しています。もちろん、MOUGメンバーがいつもOCLCに手紙を書いたからこそ、彼らはやる気になったし、道から外れることがなかったのです。

MOUG。才能にあふれ、熱心で、粘り強く、頑固な人々で構成されるこの共同体は、本当にすばらしい仲間です。どんな時も全員で力を発揮して、今日私たちは、ここまでたどり着くことができました。今日までの道のりをふりかえる時、本当に誇らしい気持ちになります。そうでしょう、皆さん。

翻訳:2008年1月21日
修正:2008年1月31日






 

 

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