音楽図書館協議会:Music Library Association of Japan


<報告・論文・情報


MLAJ研究セミナー(2003.11.7)
《講演「宮沢賢治の音楽》

佐藤泰平(東北大学大学院講師)

 

○渡辺 本日は、佐藤先生がお持ちの明治39年製ベビーオルガン、蓄音機、それからSPレコードを持参いただきまして、実際に先生が音を出してくださるということですので、楽しみにしております。佐藤先生、よろしくお願いいたします。

○佐藤 佐藤です。(オルガンを前にして)弾くときは皆さんに弾き手が背中を向けた側がオルガンの顔です。よく逆にしてコンサートをやる方もいるのですが、そうではなく楽器が大きくても小さくても鍵盤が見えるほうが表になります。キリスト教の教会では壁に鍵盤を向け、奏者が隠れているかのようにして弾いていることがたまにあるのですけれど、それは向きが反対です。
 これは明治39年のヤマハのベビーオルガンです。製品番号はNO.72808です。明治20年にヤマハがリードオルガンを作り出しましたので古いほうのタイプです。私が持っているカタログで一番古いのはヤマハの明治27年のコピーです。それから本物の明治41年のも持っていますが、それ以前のものはまだ見ていません。楽器の裏蓋には必ず製品番号の刻印が付いています。私がこれまで調査した中で一番古いのが武蔵野音大楽器博物館の倉庫にあり(残念ながら展示されていません。)番号を確認してきました。製品番号はNo.3616です。その番号はこの中ではなくて、蓋の手前の中央部に小さく墨で書いてありました。他のところを一生懸命探していたのですけれど分からなくて、係の方と一緒に探しているうちに、やっと見つけたのです。
 番号がなくて古いのが、明治23年に作られたというもの。これは今、ある博物館にあります。それを調査に行った時非常に腹が立つことがありまして、館長に抗議の手紙を書こうかと思うぐらい悔しかったのです。こういう話をここでしては失礼なのですが、案内の教授の方が白い手袋を置かれて「手袋をしてください」と私にいいました。つまり「素手で触るな」というわけです。私は素手でやりましたけど…。そして弾こうとして、オルガンのいすに座ろうとしたら、「そのいすは使わないでください。壊れると困ります。大変なお金をかけているんです」と…。写真を撮ろうとしたら、「このオルガンの絵はがきがあるのですがね。売店で売っていますよ…」。熟覧届けをきちんと出した上で、許可を得て行ったのにもかかわらずなのです。それでも我慢をして写真を撮ったのですが、腹が立っていましたからでしょうか、全部失敗でした。そして演奏を録音するためのDAT も持って行ったのですが、「芸大の若手の人が弾いたテープがあるんですけどねえ」と、また嫌み。「何と嫌な人なのだろう」と思いました。
 職員が持ってきた座布団を二枚敷いてパイプいすに座り、30分ぐらい弾きたかったオルガン曲の代わりに、宮沢賢治の歌をわざと弾きながら歌いました。「2〜3時間ぐらいは……」と思って行ったのに、最初から「1時間だけですよ」って言われてしまい、その人は1時間ずっと付きっぱなし。今までオルガンの調査をしてきた中で、一番嫌な思い出でした。
 今まで780台ぐらい、全国で調査しています。いい思いもたくさんしてきています。特に武蔵野音楽大学、国立音楽大学の楽器博物館ではお世話になっているし、芸大の資料館の方も貴重なオルガンを調査させていただきました。明治14年の才田オルガンが、今も弾けるように修復し、保存されているのはすばらしいことです。「長尾オルガン」の話をします。これは三重県の松阪で長尾芳蔵が明治19年から製造を始めたオルガンです。ヤマハより1年も早く作っていたのです。その長尾ベビーオルガンが一昨年三重県鳥羽市の旧家・広野重子さん宅の蔵の2階で発見されまして、私も調査し「直したほうがいい」とアドバイスをしました。長野の山口オルガン工房に修復を依頼して修復費用と修復記念コンサートをやるための費用も募金したのです。無事に目標額を超えるお金が集まり、修復コンサートでは私が弾きました。それがきっかけになって、「鳥羽・長尾オルガン協会」が誕生し、今、会員は300人ぐらい。毎年1回ずつのコンサートが3年続き、2001年10月27日にCDも作りまして、今や盛り上がっています。そのベビーオルガンは39鍵ですけれどヤマハよりいい音がします。これは、私がこれまで日本製・外国製のベビーオルガンを何台も弾いてきた経験上申し上げるのですが、お弾きになればどなたでも必ずその良さが分かると思います。明日はこの長尾オルガンを保管している鳥羽教会で公開レッスンがあり、私がお邪魔することになっています。今度で5回目です。
 そのあとの話で余計なことかもしれませんが、鳥羽市内に6校ある中学から2年生の生徒12人で、「鳥羽少年探偵団」を作り、一昨年は江戸川乱歩のことを調べたそうです。今年は三島由紀夫の小説『潮騒』に取り組んでいて、「長尾ベビーオルガンとジョイントで何かできないか」と相談がありました。私に加わってほしいというので、明日の夜は、企画している鳥羽市・市役所の企画課地域振興係の方と鳥羽・長尾オルガン協会事務局の清水美小枝さんと3人でお会いする予定です。来年の3月14日(日)に中学生の朗読と長尾オルガンと、そしてソプラノ独唱も加えての『潮騒』朗読会をやりたいとえらく張り切っているそうです。「1か月1回練習をしたい。来てもらえないか」という話でした。
今日は賢治の話なのですが、賢治のほうではわたしは音楽をやっています。寺田寅彦のほうも音楽と文学を調査、研究をしています。三島由紀夫までいくにはまだ大変なのですけれど、出会った人と、その人の音楽を考えていきたいと思っています。
 もう一つついでに、『潮騒』がギリシャの古代文学の2世紀、3世紀ごろにロンゴスという人が書いた『ダフニスとクロエ』という小説を底本にしているというのは、もうよく知られていることなのですけど、その訳を先日読み終えました。そして、「なるほど、『潮騒』のヒントはここから得たか」と。三島さんは三重県の鳥羽市の神島という離島を選んだ、そして神島の前の名前がウタジマ、歌島(かじま)である、その歌島をとって三島さんは『潮騒』の場所を「ウタジマ」と名付けている。間違いなく神島をテーマにしているわけですが、なぜそこを選んでいたのか? ギリシャを旅行した後だからということで執筆の動機としては十分だと思いますが、そういうなぞも含めて、生徒たちと考えていけたらと楽しみにしています。
 (今日は)このヤマハのオルガンの音も聴いていただきたいのです。これはインターネットのオークションのYahoo!(ヤフー)で手に入れたものです。値段は3万円。考えられない掘り出し物です。ただし、39本のリードが全部あるかどうかは分かりませんので電話で聞きましたら、売る人はおおよそ古いということしか分からないのですね。明治39年というのは私のところにオルガンが着いてから調べて分かったわけです。とにかく来るまでは心配でしたが、「3万円だから、まぁいいや」と。来て調べたら、修理も何もされていないオリジナルのものでした。音は出ない。でも、直ると確信しましたので、山口オルガン工房に送って直してもらい、今はいい音で鳴っています。同じヤマハのベビーオルガンよりもいい音が出ると思います。デモンストレーションを兼ねて、「ベビーオルガンで、そんな大曲を弾くのかよ」と皆さんおっしゃるかもしれませんが、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の「巡礼の合唱」、オーケストラと男声合唱の曲を弾いてみます。宮沢賢治はこの曲が大好きで、SPレコードで聴いていました。石川啄木も土井晩翠の家で、SPレコードによるこの曲を聴いていました。

(オルガン演奏)

こういうベビーオルガンの演奏は意外に難しいんです。足踏みの具合で。今の出だしのほうを油断していますと……(悪い例・演奏)。ピアノの得意な方でも、足の踏み方の難しさでこんなふうに・・・(演奏)。ガク、ガクっと音にムラが出てきます。そうならないように注意して踏むのは、オルガンが小さければ小さいほど難しい。でも、野外のフォークダンスとかレクレーションのためにも、役立つように作られたはずです…。(「わらの中の七面鳥」の一節を演奏)。音は、大きなリードオルガンの音よりも外へ明るく出ていくように作られています。日本ではほとんどバカにされるようなかわいそうなオルガンなのですが、オルガンに責任はなく使っている人たちの問題です。そして、小さいほど修理をするのが結構難しいのだそうです。そのためかどうか分かりませんが、博物館にあるベビーオルガンは大抵修理されていません。大きなオルガンを最初に直すのでしょうね。でも、小さいオルガンが直って初めてオルガンの良さ、本質のところが理解できると私は思っているのです。

 それでは、詩の朗読をさせていただきます。賢治の場合は「音楽が先ということがあるのではないか」ということをお話しいたします。
「春と修羅・第二集」の六つの詩の、原稿の上のほうにメモがあります。皆さんのプリントの1枚目。「春と修羅・第二集」の「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」。左側の本物の原稿の初稿には上のほうに、「Abendlied, Robert Schumann」ときれいな字で、赤インクで書いています。ですからカラーでコピーを取ると、とってもきれいな色が出てきます。赤インクで書くというのは、やはり何か特別な意味があるはずです。最初の題は「普香天子」でした。
 1924年、大正13年の4月20日付け。この日付の前後2日間ほどで五つの詩を賢治は書いているのですが、花巻から盛岡に行き、盛岡から徹夜で外山高原まで夜通し歩いて、その中で作った、夜明け前の3時か4時頃の時間帯からのものです。正確にいいますと、4時半から4時50分まで朝焼けがありました。これは盛岡地方気象台に行って調べたのです。それで、賢治は朝焼けのことを「はやくも蜜のいろに燃え」と記したわけです。それ以外も調べますと、賢治の詩の中に出てくる気象に関わる表現は、実際の気象を写し取った正確な「気象スケッチ」として読むことができると考え、それをレポートに書きました。(佐藤泰平「『春と修羅』(第1集・第2集・第3集)の<気象スケッチ>と気象記録」『宮沢賢治研究 Annual』Vol.3, 宮沢賢治学会イーハトーブセンター機関誌, 1993)
 私はこの詩を追体験したくて、ある年、4月20日が無理だったので23日に、外山高原に車で一人で出掛けたのです。朝の3時に「ここかな?」と思う山に行って。電気は全くない山の上で、真っ暗。ほんとの暗闇。闇っていうより真っ黒いんです。車から下に降りるのも怖いというほどです。草があるからその下は土だって分かってはいても、車から降りるのが怖い。寒くて寒くて、オーバーを着て、その上に丹前を着て、それで車を暖房していても寒い。その日はまだ雪がありました。その場所でこの詩を読んだのです。まあほんとに凝り性だなと自分でも思うのですが。とても風の強い日でしてね、せっかく撮った録音は風の音が入り過ぎていてダメだったのですが、追体験らしいことにはなったと思います。
 「Abendlied」というロバート・シューマンの「夕べの歌」を、朝焼けの詩の音楽として賢治が選んだのではなくて、「夕べの歌」を知っていた賢治が、その反対の朝焼けの場面を探していて、やっと念願の場所にたどり着き、その音楽をパラフレーズしたものではないだろうか・・・これは推測です。
 私がこの音楽を音にしたいと思うまで、どなたもこの「Abendlied」と〔東の雲は…〕の詩との関連については調べていなかったようです。私が初めてこの曲を音にしてみたとき、単に「BGM」というよりももっと積極的に、すでにこの音楽を知っていた賢治が、音楽にふさわしい場所を探しだして、詩を作ったように思います。
 賢治の詩と音楽との密接な関係についての根拠は三つほどあります。賢治の親友である花巻高等女学校の音楽の先生(藤原嘉藤治)が、ある日音楽室に電灯がなかった頃、ピアノを練習していたら、賢治が入ってきた。「おれが詩を朗読するからお前はピアノを弾け」という。即興で伴奏をしろという注文。「嫌だ。そんなのできない」「やれ」……しょうがないから弾いたけれども、冷や汗ものだった。なぜなら、音楽の教師ではない賢治のほうが音楽を詳しく知っていて、音楽の教師のおれが弾くのはどんな程度か、みんな賢治に知られているから嫌なんだ、けれどとうとう弾かされた・・・という対談が残っています。ピアノを弾かせる賢治は、自分で弾きたかったのでしょうけれど、ピアノは藤原さんのほうが上だった。この人はこの程度しか弾けないというのが分かる賢治だったので、藤原さんは「嫌だ、嫌だ」と言ったのだ、と思います。
 あと二つです。一つは賢治が大正15年12月に東京に出てきたときのことです。数寄屋橋の塚本商会の1階が楽器売場で、2階がダンスホールの部屋だったのを、練習場所に困っている近衛秀麿さんたちに2階を貸して、新交響楽団の練習場に使わせていました。そこに賢治がオルガンを習いに行った、という話があります。
 そのオルガンを習った直後かと思われるのですが、(いまだに、その年月日は不詳です。)セロを習う三日間があります。賢治にセロの先生を紹介してくれたのは塚本商会の社長の塚本さん。セロの専門の人たちのだれもが嫌がったらしいのです。そこで、活動写真館ではセロを弾いていた人のいい大津三郎さんというトロンボーン奏者に声がかかり、賢治と会って話をしているうちに、「まあ、やってあげよう」と、大津さんの自宅で早朝の2時間のレッスンを引き受けることになったのです。大田区の荏原に賢治が通って三日目、お別れのお茶会をした時に、「30歳にもなって、何故チェロをやるのですか?」と大津さんが賢治に聞いたら、・・・これは皆さんのコピーのほうに、「賢治に3日間セロを教えた話」に載っていますので、後でご覧になってみてください。「今、エスペラントの詩を書いています。これに合う音楽を作りたくて、オルガンを習い、自習していたけれど、チェロのほうがいいと思って、チェロを習いました」とあります。
 賢治の場合、音楽を習うというのは楽譜の読み方を習うこととか、何かの作品を弾くとかではなくて、自分の詩の朗読に合う音楽を作りたいからという目的があったのです。彼は、詩と音楽のコラボレーションを自分自身でしたかった人だということになります。
もう一つの根拠は、実際に六つの詩に作曲者と曲名が書いてあるメモの中に、 accompaniment(伴奏)というのをはっきり書いたのが三つあることです。多分、いろいろやっていたはずです。そのうちの一つ、前に述べましたロバート・シューマンの「Abendlied」、SPレコードで、カザルスが弾いているこの曲をかけながら、私が読んでみます。蓄音機はアメリカのビクトローラで、I-90という、当時、昭和の初め頃は150円でした。

(朗読と音楽)

……「あなた」という対象は、お月様のことです。すごい内容で、賢治でなければ書けないような、表現できないようなものです。ある大学での公開講座でこれらの詩をいくつか読んだのですが、「佐藤の朗読は音楽に合わせ過ぎている」との批評を受けました。この詩を読むのに音楽を入れなきゃいけないと言っているわけでは決してないのですが、音楽と一緒に読むときは合わせたほうがいいに決まっています。早く読むと、読むほうが早く終わってしまい、音楽だけ残るわけですね。ゆっくり読めば、音楽が先に終わって、今のようにビービーと雑音が入ります。せっかくですから、音楽に合わせて読むほうがいいのではないでしょうか。でも、これらの作曲者や曲名のメモは完成原稿には書いてなくカットしてあります。初稿のほうだけに書いているわけですから、賢治はメモを残すつもりは全くなかったのでしょう。たまたま残っていたのです。でも、秘密ですね、これは。詩人にとっての他人には知られたくない創作上の秘密だと思います。音楽が私に詩を書かせたんだ、と思っていたのではないでしょうか。
 初めて朗読したのはちょうど20年前「宮沢賢治・没後50年」という時、東急デパート日本橋店で「賢治の部屋」というのが四つ開かれてそのうちの一つが「賢治の音楽」だったのです。私が担当することになり、そこで初めて生演奏付きで詩を読みました。その時にヴァイオリンを弾いてくださったのは、今、東京古典四重奏団で活躍されているチェロの田崎瑞博さんで、当時はヴァイオリンで参加してくださいました。その田崎さんが弾かれた1つが「山火」の音楽です。その詩のメモは「Sons du Soir」、Christian Kriens。
Kriesと書いたのは賢治の誤記でKriensのNが抜けています。<acomp>(accompaniment)とはっきりと書いています。
 これも音楽が先で、この詩を書いたのではないかと思われます。特に印象深いのは、真ん中あたりの「馬をなだめる遥かなバス最低音と」というところ。実際の楽譜には「遠くから聞こえてくるようにやさしく」と、作曲者のコメントが書いてあるのですね。「あぁ、大したものだ。ちゃんと賢治さん、楽譜も知っている」。言い遅れましたが、「Abendlied」の楽譜も賢治の親友の藤原さんが持っていました。
 この「Sons du soir」が入っているヴァイオリン曲集は、私が神田の古書店で見つけたものです。見つけた時はうれしくて飛び上がりたかったのですけれど、うれしい顔をすると値段が上がるような気がするものですから、わざと不機嫌そうな顔をして、心では「やったー! ようやく見つかった」と大喜び。残念ながらSPレコードはまだ見つかっていません。ですから、これも楽譜で賢治は知っていたと考えています。賢治が楽譜をすぐに弾けた人かどうかは分かりませんが、少なくとも旋律線のさまざまな動きや音符の込み合い具合を見たり、リズムを読める人だったと思います。また、どんなふしにも自分の言葉を付けられる人だったようです。「楽譜さえ送ってくれれば、わたしが詞を入れましょう」と教え子に書いています。すごい才能を持っていた人でした。この「山火」の詩も、おそらく音楽が先だったと想像しております。

(朗読と音楽)

 録音したのは1982年12月15日、私が勤めていた学校の礼拝堂で録音したのですが、初見なんです、この田崎さん。一度も練習せずにいきなり本番でこれだけ弾く、すごい方でした。
 3番目の詩もテープです。レコードが3種類ほどあるのですが、私の知り合いでクリストファ・N・野沢先生という、SPレコード収集・研究の日本でトップの方。その方から録音をいただいたのが一番読みやすいので、それで読ませていただきます。左側の下のほうの、「Piano acomp.」、「Die Csikos-Post、クシコスの郵便馬車」、Hermann Necke。賢治が書いたのですが、実際は消しゴムで消してありまして、校本の編集者たちが筆跡から取り出したので、今は活字になって読めるわけです。その下にRomance、Allegro con brio、Johan S. Svendsen、Sol G Lento molto。これも、楽譜を見つけましたが、このとおりに書いてあります。ですから、賢治もこの楽譜を見て選んだと考えていいでしょう。そして、レコードも当時はあったわけです。この音楽から生まれたであろう、「〔温かく含んだ南の風が〕」を読んでみます。

(朗読と音楽)

 俳優であり、また賢治研究家として広く知られている内田朝雄先生(故人)と二人で「内田朝雄・佐藤泰平 2人の会」を武蔵野市民文化会館の小ホールで17年前にやりましたが、東急デパートで私が読んだのを聞かれた内田先生(私を推薦したのが、どうやら内田先生らしいのです)が、「おれも、いつか読みたいな。音楽入れて」と私にいわれました。その後何年か過ぎ、六本木の劇場で公演された内田先生の楽屋をお訪ねしまして、打ち上げのとき先生のお隣に座らせていただいたのです。「先生、前におっしゃったあれ、ご冗談ですか? 本気でおっしゃられたのですか?」「あぁ、本気だよ」「じゃあ、ごいっしょにやりません?」「あぁ、いいよ。やろう。」なんて話があり、実現した会でした。私はピアノ伴奏、ヴァイオリンはバロック・ヴァイオリンの小野萬里さんが弾いてくださいました。
 今から読みます「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」は、その時、内田先生が読まれたのですけれど、内田先生の声は太くて重くて、すごく立派な声なのです。「むしろこれはあなたのほうがいいよ。君の声は軽いからいいよ」と言われました。レコードがあったのですが、今年の4月、授業が終わった後、レコードケースに入れて帰る時にパチンと留めていなかったものですから、バラバラと落ちて割れてしまいました。非常に残念でした。鈴木鎮一さんが弾いている曲です。テープは残していたのでそれを使います。読むテンポが速すぎてお嫌かもしれませんが、早口で読むためにわざとレコードの回転を速くして録音したものです。もう1台CDラジカセをお借りしましたので、こちらでは軽便鉄道の音が入っているのをかけていただきます。日本に残っている岩手軽便鉄道と同じ機関車が走っているのを録音したもので、「日本のSL」というCDにあります。この詩は映画的なカメラワークで、最初は遠くから俯瞰(ふかん)して列車を見ている。いつの間にか列車の中の風景、そして車窓からの景色、がけを見たり、線路を見たり、空を見たりと、自由自在に…。ですからこの詩そのものが短編小説でもあり、エッセーにもなり、映画的な脚本にもなり得ると考えます。これを映像にしたらどんなに素敵だろうと思っています。

(朗読と音楽)

花巻でテープに入れてやったことはあるのですけれども、本当にCDをかけながらやったというのは今回が初めてでした。ぶっつけ本番でしたけど。今の最後の汽笛、タイミングが偶然合っていて良かったと思います。池澤夏樹さんがこの「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」についてエッセーを2ページほど書いておられます。「一体どういうわけだ? 終わりの列車、西行き、下り列車…、東行きか西行きか本当はどっちなの?」とても面白い内容です。まだ、お会いしたことはありませんが、「池澤さんご自身がお読みになってはいかがですか?この音楽に合わせて」って、いつかお会いしたらお話してみたいと思います。ラルゴのほうは、時間がもし残ったら…にします。
 余談になって恐縮なのですが、滝廉太郎の展示も、午後の見学に、たしかありますね? 幼稚園唱歌、滝廉太郎の、「小さい子、小さい子」という歌、ご存じの方いらっしゃるでしょうか?滝廉太郎の作詞・作曲です。
(歌唱)・・・わたしは知らなかったのです。賢治の弟の宮沢清六さん、3年前、97歳で亡くなられましたが、その方からわたしは宿題を出されました。ある日、「佐藤さん、『小さい子』って知っていますか?」「いいえ、知りません」「あなた、探してみてください」と。よく、こんなふうに難題を出されるのです。「知りません」と答えると「調べなさい。」と言われるのです。

(歌唱)

これを私が清六さんの歌を聞きながら紙に五線を急いで書いて書くわけです。聴音ですね。「もう1回、ここお願いします。もう1回…」。これを頼りに原曲を探したのです。2、3年かかりました。結局は、私が持っていた滝廉太郎の作曲集にあったのです。それは題が「ホーホケキョ」でした。「小さい子」で探していましたからなかなか分からなかったのです。「なぁんだ、あったあった。なぁんだ、清六さんの歌い方、違うじゃないか」と。原曲はこうなってます。(歌唱)リズムが違うことと、傑作なのは、清六さんの記憶では、「わたしは海を描(か)いてます」なのです。海を描いているこの小さい子はえらくモダンですなと、清六さんは何度も強調しておられました。私も明治か大正時代の歌だと思っていましたから、「すごい詩ですね。だれの作品でしょうね」といっていました。「海を描いています」「海を描いて、それから」「それから歌を歌います。」「何の歌を歌います?」「黄色い、青い着物を着て、ケキョケキョ……」。原詩は「海を描いている」ではなく「わたしは梅を嗅(か)いでます」でした。これだけ、花巻弁の影響があるわけです。この曲は賢治さんとトシ子さんから教わった歌だそうです。清六さんにこのコピーをお見せしながら、私が原曲どおり歌いましたら、清六さんはガッカリされたのです。しかし、「海もなかなかいいもんじゃないでしょうか?」と負け惜しみを言っておられました。「そうですか。滝廉太郎でしたか」なんて、感無量。「梅を嗅(か)いでます」と「海を描(か)いてます」。世の中には歌詞を間違って覚え込む人が少なくないようです。
 そういえば私の知人で、滝廉太郎の「花」の歌い出しを「春のうららの炭俵」と覚えた人がいました。「隅田川」と「炭俵」って、音韻は全く同じなわけです。その人は東北の仙台の人です。うちの周りに炭俵はあるけど、隅田川は行ったことがない人です。ずっと、そう思っていて高校生になって初めて気が付いたという笑い話もあります。ともかく清六さんは悔しがっていました。清六さんのこの話をわたしがある雑誌にエッセーとして発表したのですけれど、ほとんど目に留まらなかったようです。
 花巻の大沢温泉に清六さんと一緒に行った折、わたしが運転して、着く途中に、「あ、思い出しました。あなた、あの浅草オペラの歌、思い出しそうです。」助手席に乗っておられた清六さんが右手をのどにあてながら、「ここまで出かかっています。もうちょっとしたらあとで出るでしょう」とおしゃるのです。脱衣してお風呂に入った瞬間に、「あっ、思い出しました」と。わざとやっておられるのかなと思いました。メモができるはずのないところでわざわざ歌って下さいました。そんな懐かしい思い出もあります。
賢治のエスペラントの詩に私が作曲し、盛岡で発表したものがあります。ご興味のある方があったらテープに入っていますのであとでお聴きになってみて下さい。盛岡劇場でやった生録音のCDが岩手日報から出ています。まだあるかどうかは分かりません。賢治はエスペラントの詩を朗読するときのためにオルガンとセロを習いだしたのです。そして私が賢治に代わって(というのも厚かましいのですが)リードオルガンとセロ用に作曲しました。その時使ったセロは本物の賢治のセロで、私が弾いたリードオルガンは啄木が弾いたリードオルガンです。「賢治のセロは直すべきです。弾くべきです」とかつて私は提案しました。そして、ほぼ同じ時期にかわいそうな状態で展示されていた啄木がひいていたというリードオルガンも修理、賢治の妹のトシさんのヴァイオリンも直したほうがいいと意見をいい、それらが直った頃に、その三つを使ったコンサートを盛岡劇場でやったわけです(企画・構成:木内みどり・佐藤泰平)。
 そこで直していたことで、ヨーヨー・マが花巻でコンサートをした時に、アンコールで賢治のセロで「トロイメライ」の曲を演奏したそうです。
大津三郎の『私の生徒 宮沢賢治』(『音楽の友』第10巻,第1号, 1952年1月)についてお話しします。ただ、この文章の中に問題点がたくさんあるのです。まず「大正15年の秋か、翌昭和2年の春浅いころだったか」と大津さんの記憶がはっきりしないのです。先ほどお話した塚本ビルの2階で、新交響楽団が練習をしていました。3日間セロの手ほどきをしてほしいとのことで引き受けたのです。そして、「朝の8時半に練習を終わって、私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる」。有楽町まで一緒にと、はっきり書いているのです。
 この大津三郎のペンネームが大津散浪です。この方の残した賢治にかかわるのはこれ一つだけ。けれど、新交響楽団の『フィルハーモニー』にはたくさんエッセーを書いていて、ライブラリアンでもあり見事な楽譜を書く人でした。大津さんは新交響楽団の楽譜を一手に引き受けていました。カラヤンが、ミスプリントが一つあったのによくぞ直していたと、大津さんをわざわざ呼んでほめたというエピソードが残っています。私も大津さんの書いた楽譜のコピーをいただいていますが、立派でしかも速そうな書き方です。この方の記憶は確かなのですね。新響の10年間などいろいろ書いているのに、賢治にセロを教えたのが「いつか」というのだけがあいまいなのはとても残念でなりません。でも、「有楽町まで行く」ということは、練習場がまだ有楽町だったということになります。ですから、大津さんの記憶が怪しいのか(大津夫人は「荏原のほうの新しくできた練習場に夫は行く」と言っておられたそうですが…)。しかし本人は有楽町で別れたと。そうすると昭和2年の6月に練習場ができて引っ越していますので、やはり大正の末かなという気はするのです。
 もっと大事なのは最後のページの下の方の、真ん中、「ウェルナーの教則本」の第1、これはもうだれでも買えますからいいのですが、信時先生編の「セロ名曲集第1巻」を進呈して別れたとあります。この第1巻がいつ出版されたかという問題が出てきます。「ヴィオロンセロ名曲集」の第1巻は、昭和3年の2月18日に共益商社から出版されました。そうすると合わない。ですから、これは結論を軽々しく出さない方がいいということになります。大津さんは本当に事柄などを正確に残す人ではあるけれど、もしかしたら間違われたかもしれない。「セロ教本」(信時潔・平井保三共編)の第1巻でしたら、昭和2年6月8日の出版ですから、割と合うのです。今、お見せしているこの「セロ名曲集」と「セロ教本」の2冊の資料はどちらも芸大の図書館に申請しましてコピーさせていただいたものです。
 まだまだ賢治のことについては、面白い話があります。バイオリニストになられた大津さんのお嬢さんにお会いして伺ったのですが、「あんな有名な賢治さんにお父さんが本当にセロを教えたの」とからかったりしたそうで、それ以後大津さんは二度と賢治の話を家族にはしなかったそうです。賢治についてのエッセーが発表されたころにだれかが大津さんにたくさん聞いていてくださればよかったのにと思います。それから、藤原嘉藤治さんがご存命の時に、おれが読むから弾けと賢治にいわれた時の詩が何の詩だったのかをだれも聞いていなかったのです。ですから、賢治の音楽の研究はとても遅れていますから、まだまだこれから長く続くのではないかと思います。「フィルハーモニー」に載っている大津三郎さんのエッセーを集めるだけでも、とても面白い企画だと思うのですが…。
 
ついでに、こんなところで皆さんに申し上げるのも失礼ですけれど、ぜひ考えていただきたいことがあります。図書館で資料を受け入れて保存し、利用者が来るのを待っていることは当たり前なのですが、待って提供するのではなく、学生たちあるいは一般の人たちに問題提起をするようなテーマをたくさん用意して、何をどのように研究していけばよいかを提案できるようにすることはできないでしょうか。全国の音楽の論文は全部、処理できるはずですし、リストも作れるでしょう。けれど、そうではなくまだだれも手をつけていない分野の問題点、例えばこういうテーマがまだ残っている、これはまだ研究されていない、これをしてみたいという人はいるけれどだれも手をつけてない。そういうものがあり、相談されたとしたらこの図書館にはあるよ、ここに行くといいよというアドバイスができると思います。学校の先生たちも学生たちが将来、10年、20年後までの間に研究発表してほしいテーマを先生たちから出す、そうなったらどんなにいいかという気がします。

『家なき子』と宮沢賢治のお話をします。『家なき子』の全訳を読まれた方、失礼ですけれども手を挙げていただけませんでしょうか。マロの『家なき子』の全訳です。いろんな訳題はあるし、抄訳というのか、短くなったのはお読みでしょうし、ずいぶん出版されています。佐藤もとこ宗子先生が調べられた範囲では、日本で訳した方は、121人もいます。川端康成もその一人。ですが、楽譜が付いている本は2冊しかないのです。私が佐藤先生から教えていただいた後に、出版された本に楽譜が付いているのは1冊しか見ていません。
 (持参の訳本と仏語の原本を示しながら)1800年代の『家なき子』の、これは後編。フランス語で、私は読めませんが、神田の古書店で見つけてうれしかったです。菊池幽芳という方が明治45年に出版したのは、春陽堂からです。これは日本で最初に『家なき子』と名づけられました。その前編を読んだ時に、特に音楽のことがたくさん出てくるのに気づきました。後編がないので、国会図書館に行って、マイクロフィルムで後編を見ていましたら、一番最後の2行に「私の記録にはなお1ページの余りがあるので、町也がそこへわたしのため、例のナポリ節を書いてくれることになった。その譜は次に示すとおりである」と書いて、(原本には楽譜あれど略す)とあるのです。原本にはあるけど、略す。それが主題歌として6回ぐらい歌われる歌なのです。すてきなナポリ民謡らしいのです。その日、国会図書館から帰る途中に寄った神田の古書店で、楽譜付きの仏語の2巻本を見つけた時のうれしさは格別でした。                      
 その本屋の中でこの楽譜を見ていて、「何だ、このメロディーは! 宮沢賢治の『星めぐりの歌』の出だしと似ているじゃないか」と気づいたのです。宮沢賢治の「星めぐり」は、…。(歌唱)この楽譜は、(歌唱)こうなっています。フレーズの後半は違いますけど、出だしは間違いなく同じ音が使われています。「わあ、これはすごいぞ」と思いました。
 賢治は小学校3年から4年まで、担任の八木英三という先生に、『未だ見ぬ親』(五来素川訳、東文館。日本で最初の『家なき子』、翻訳というより翻案で全部日本名。)を読み聞かせしてもらっていました。賢治だけじゃなくてクラス全員が夢中になるのです。読み方がうまい八木先生だったからでしょう。明治36年7月の発行です。まあ、これ全部を本気で読み続けられたら、それこそ子供たちは感化され、変わってしまうだろうと思うのです。
 深読みかもしれませんが、賢治が後に春陽堂のなお1ページがあるということに気づいたとします。それを読んだ賢治は、当然わたしのように楽譜を探すだろうと思うのです。そして、こういう楽譜を見つけたら、自分で弾くでしょう、歌うでしょう。そのうちに、それを何とか自分の作品に取り込みたくなるのではないでしょうか。盗作したのではないかという意味で申し上げているのではありません。なぜなら、これまでに私は明治、大正時代の歌のかなりの数を探したのですが、「星めぐり」と同じような雰囲気をもつ節はどこにもありませんでした。賢治のオリジナルで最初に作曲したメロディーが「星めぐり」だとしたら、これはもう奇跡としかいいようがありません。
そして、調べていくうちにまた新たな発見をしました。賢治は昭和2年の秋、自分たちのいらなくなったSPレコードを売りに出すレコード交換会を始めました。その時に賢治がガリ版で印刷した「レコード交換用紙」が遺品の1つとして残っています。その「用紙」に書かれたレコードの中にパデレフスキーの『メヌエット』、リストの『ベニスとナポリ』の2曲が入っている1枚のレコードがありました。その用紙には、『コロンビアの青、演奏はピアノ、演奏者ジョセフ・ホフマン、12インチ、1枚、傷あり、古い、現在の新品市価5円、売値40銭』と書いてあり、この「古い」というのが大事なのです。やや古いというのも賢治は正直に書いていますし、新しいというのも書いています。古いというのは、これが昭和2年の話ですからかなり前のもので、このホフマンのレコードは1918年(大正7年)のコロンビアレコードのカタログに載っています。ですから、大正10年ごろから賢治がレコードを聴き始めたといわれていますけど、もっと前からではないでしょうか。大事に長い間、そのレコードを聴いていたのだと思います。そのレコードが今ここにあります。ホフマンが弾いているナポリのメロディーが、実は『家なき子』の主題歌なのです。
 8年前の12月に、私は立教女学院短期大学の紀要に『「家なき子」と宮沢賢治−ナポリ民謡「Fenesta vascia」と賢治の「星めぐりの歌」−』という研究ノートを書きました。
 この『家なき子』の中で歌われるこの歌がどんなに大事かをお話しないと意味がないのです。捨て子のレミ少年がヴィタリスという旅芸人に買い取られます。そして、親元から離されて猿と犬の一座に加わり、芸をしたり、歌を歌ったり、琴を弾いたり、バイオリンを弾いたりと、その師匠から芸や音楽を教わります。楽譜の読み方から全部教わるのです。大事なのはその師匠が、何十年か前、ヨーロッパで名前を知らぬ人がいないというぐらいの有名なオペラ歌手だったということです。その師匠が亡くなった後、素性が分かるわけです。オペラ歌手として活躍した本人に、本気で仕込まれたのがレミの歌なのです。ですから当然、レミの歌は聴く人を感動させる歌に成長していくわけです。
 ヴィタリス老人が亡くなりレミが残ったときに救ってくれた花作りの一家、そこの末っ子の女の子が、幼い頃に受けたショックで口が利けなくなっている。その子が、レミの歌うナポリ民謡を聴いて涙を流すのです。ほかに兄姉がいるのですけれど、「何で泣くの」と兄が言う。やっぱり兄姉の中でも違うわけですね。そして、その女の子は歌いたいのだけど声が出ないから、レミ少年の口をまねて覚えようとします。そして覚えていくのです。
 その何年後かに別の場所で、レミ少年が本当のお母さんを捜しに行き、ある場所で歌いました。2節目を歌い出そうとしたら、何と近くの塀の中で2節を歌う声が聴こえてきたのです。2節を知っているのはあの子しかいないとレミは気づきます。彼女は何年か前にレミから教わった歌の一節を今、耳にして、レミがそこにいるという驚きとうれしさのショックで、声が出たのです。弱々しい、奇妙な声で2節目を歌いだす女の子!音楽はこれだけ人の心を動かすということを私たちに伝えてくれるのです。そして後にこの2人は結婚します。ある日レミはお世話になった人たちを全員招待します。その楽しい会の最後にあの例の歌を歌おうといって、ヴァイオリンのマチアとレミが二重奏をする、その歌の楽譜を書いておこう、記念のためにという楽譜なのです。
 ですから楽譜がなければ意味がないし、歌わなければ小説を味わったことにはなりません。少なくともだれかが歌うのを聴かなければ…。イタリアで出版されている楽譜(パヴァロッティがちゃんとCDに入れています)を見ながらこの歌を歌ってみます。歌う前に上坪京子さんが訳してくださった歌詞をご紹介いたします 。

(朗読)

これが1番の訳です。2番が・・・(朗読)。この歌を初めて聴いたときに、その口が利けない少女(リーズ)は涙を流すのです。それほどに感情移入ができる女の子でした。下手なイタリア語で1番だけ歌わせていただきます。

(歌唱)

こういうメロディーがこの中で5回、6回と出てくるわけです。そしてヴィタリス老人が亡くなる前に、最後の歌を歌う場面があります。なんとか猿の病気を治すお金を集めるための会を開くのですが、レミが歌ってもお金を入れてくれる人はいません。犬がやってもだめ。やむを得ず、その老人は今まで封印していたオペラの歌を歌うのです。全訳のほうにはきちんと作曲者、オペラの題名や曲名が書かれています。日本ではおそらく音にしたことがないように思います。それを武蔵野音大に行って、楽譜を手に入れて歌ってみたら、まあいい歌なのです。例えばこんなふしです。

(歌唱)

もちろん、ヴィタリス老人は無伴奏で歌います。オペラ歌手だった人が、オペラ劇場のオーケストラと一緒に演奏していた場面と同じような気持ちで歌ったはずです。レミ少年は初めて聴いた師匠の本物の歌を聴いて泣きました。ここでも、ただ字を読むのではなく、歌われなければなりません。しかし、残念ながら歌う人がいないのと、楽譜を探す人もいないようです。『家なき子』に関してこれだけの楽譜があるのです。これらをもとに歌い手と朗読者と、そんなことをやりたい人を集めて、『家なき子』全訳による朗読会をやったらどんなにいいことか。目が見えない人たちのためにも、そういう会が開かれるといいのにと思います。この本文の中ではそのころ有名だった歌、よく知られた歌の2曲を歌ったとあります。ですから、書かれた時代にフランスでは有名だった歌なのです。ところが日本では歌う人が残念ながらほとんどいなかったのでしょう。
…あと4分ぐらいいいでしょうか。『鹿踊りのはじまり』という賢治の童話があります。6匹の鹿が嘉十という主人公の残していった栃の団子と手ぬぐいを見つけます。ウメバチソウの下に置かれた栃の団子を食べる楽しみを残しながら、でも後で食べよう、手ぬぐいのほうが面白そうだから、と手ぬぐいを中心に遊ぶわけです。手ぬぐいのところに1匹ずつ行って、その手ぬぐいの様子の報告を仲間たちにするのですが、その話を花巻弁で鹿たちがやるから面白いのです。標準語ではなくて、花巻弁でしゃべるのです。

(朗読、歌唱)

こんなふうにずっと進んでいくのです。その次のページの……(朗読)。嘉十は集中していって、鹿と全く同じような気持ちになります。それほど没入できるかどうか、浸りきれるかどうかが大事な音楽性を養う一つの秘訣だと思います。鑑賞能力と同時に浸りきる能力、嘉十は間違いなく音楽性豊かな人という設定で賢治は描いたと思うのです。

(朗読)

「たがひにせわしくうなづき合ひ」とは、次に何をしよう、こうしようという約束をして、そうだそうだ、こうしようというふうにして鹿たちは太陽讃歌を歌い始めました。「嘉十はもうほんたうに夢のやうにそれに見とれてゐたのです」。その夢のように見とれるということが今の子供たち、大学生たち、一般の私たちにも、そういう大切なときを忘れてしまっているのではないでしょうか。本当に見とれてしまうのです。ここで、6匹の鹿が歌う歌を(さっきの歌もこれから歌います歌も私が作った歌なのですが)、一人で歌ってみます。「一ばん右はじにたつた鹿が細い声でうたひました」。

(歌唱、朗読)

・・・というような話なのです。賢治の童話、百何篇あるうちの約3分の1に、歌が入っています。この歌の行数を全部調べましたら、1,130何行かありまして、約320何曲、その約3分の1が即興で歌うと考えられる歌です。大学生も小学生も幼稚園の子供たちも、自分の歌を歌いたがっているはずなのに、人の歌ばかり歌っています。自分の言葉で、自分の節で歌うということを賢治が実践していますし、みんなそれができるはずなのです。この嘉十のように熱中することができる心を持てるような、そんな機会が日常の生活の中でたくさん作られることを私は願っています。
 
エスペラントの朗読ですが、わたしは佐藤勝一先生(岩手の宮古短大助教授・故人)にいきなり電話をして、「私はまだエスペラントの朗読を聴いたことがありませんので、テープに入れて送ってくださいませんか。」とお願いしました。送ってくださったのを聴いた途端に、「あ、これは作曲できる。作りたくなるはずだ、賢治が…」と思ったぐらい、すてきなアクセント、抑揚で読まれていました。それで、送っていただいたテープに私なりに作った曲を合成したテープを作ったのですが、今から聞いていただくテープは、盛岡劇場で佐藤先生ご自身がお読みになり、私が啄木のオルガンを弾き、小西信浩さんが賢治のセロを弾いたCDから撮ったものです。

(朗読と音楽)

〇渡辺 それではせっかくですので、皆様方から何か先生にご質問等ございましたらどうぞ。

○国友 今日はありがとうございました。『家なき子』の原作ですけれども、何年ごろ・・・。

○佐藤 1878年です。

○国友 そうですか。少し触れられたようですけれども、リストの「タランテラ」の中に同じ曲が引用されていますが、それは『家なき子』に出てくる際、偶然……?

○佐藤 私の「宮沢賢治とレコード(二)」という1983年に書いた研究ノートの中に「ヴェニスとナポリ」のことを書いているのですけれども、リストの作曲は1859年、そしてピアノ曲の「巡礼の年」というシリーズの中の「第2年イタリア」の追加として同じ年に作曲されました。そこには1、2、3と内容があり、1.ゴンドラの漕ぎ手、2.カンツォーネ、3.タランテラの3曲から成っています。2のカンツォーネが先ほどわたしが歌った、「Fenesta vascia」です。本当に1918年の古いレコードを賢治は聴いていたわけですね。ここに同じレコードが今ありますけど。それを賢治はずっと手放さないで持っていた。そしてレコード交換会に出したのですが、だれも買わなかったようです。古いからでしょうか。それが今どうなったかは追跡していません。賢治がちゃんと作曲者、演奏者などを全部「レコード交換用紙」に書いてくれていたおかげで、本物を手に入れることができたのです。

○国友 古いレコードをお探しになって。

○佐藤 「レコード交換用紙」が残っていたので同じものを探せたわけです。これまでに約400枚ぐらい買っています。ベートーベンの第5番「運命」の三種類を比較して聴いたレコードなど。賢治の文学作品とかかわるSPレコードだけで、立派な棚が一つできる。それをテープにも録音しておきたいと思っています。文学作品が生まれるきっかけになった音楽としてのSPレコードの付加価値は、すごいものがあると思っています。
 
○吉田 宇宙工芸をやっている吉田晴弥といいます。初めまして。先生と同じように宮沢賢治さんの文学と音楽のつながりを研究なされている方っていうのは、いらっしゃるんですか。

○佐藤 あまりいないような気がしています。

○吉田 同じような研究をなさっている方がいたら、さっきのこの鹿が踊りながら歌っているみたいな、あのリズム感というのを、「あ、君はそう思うのか。僕はこう思った。僕はこんなリズムだと思った」というふうに話できますが、おひとりで研究なさっていると、ちょっとさみしくありませんか。

○佐藤 『鹿踊りのはじまり』は、合唱曲やオペラにしている方がいるのは知っていますし、見ています。かつて、私の友人にナレーターとして読んでもらい、私が作った歌の部分はプロの歌手に歌ってもらって、『鹿踊りのはじまり』の朗読劇が終わった途端に、本物の鹿踊りが入ってくるというのは宮城県の多賀城市でやったことがあります。踊り手さんたちに貸切バスで来てもらい朗読が終わった途端にダダッ、ダダッと…。すごかったです。岩手県の江刺市でやった時は、地元の劇団の方たちに鹿になって踊ってもらいました。これはちゃんとリハーサルもしました。
例えばここであと1時間あるのでしたら、皆さん方から6人を選んで鹿になってもらって…。

○吉田 いいですねえ。

○佐藤 そういうのをやりたいなと……。

○下森 ちょっと質問ですが、先ほど終わりのほうで、音楽と賢治の作品に関する、何か先生がまとめられた冊子が
あるというお話しでしたね。

○佐藤 はい、「賢治とレコード」。

○下森 それを入手するとしたら…。

○佐藤 立教女学院短期大学図書館に入っていますので、問い合わせてコピーをお願いすれば送ってくれると思います。

○渡辺 それから皆さん知っていらっしゃると思うんですが、佐藤先生が書かれた『宮沢賢治の音楽』というご著書がございます。これを読むと、今日の基本的な部分が大体網羅されております。もちろん音は出ませんが楽譜は付いておりますから、その楽譜を基に皆様がまた音を楽しんでいくことができるように、工夫して本にされておりますね。

○市川 筑摩書房の出版で定価は3千円です。

○佐藤 音楽大学の中に楽器博物館をお持ちの所があるでしょうけれども、そこにこういう楽器(ベビーオルガン)がありましたらぜひ修理してください。学生および先生たちでコンサート、あるいは職員の方のコンサートができるように。その代わり、腕のいい人が直さないとだめです。直し方によっては何にもならない場合があります。
 それから、このセノオ楽譜のカタログ。こういうものはどこかの図書館で全部目録どおりにきちっとそろえたら、どんなにいいかと思います。今、神田の古本屋が1曲、2万円とか3万円でこのセノオ楽譜を売っているわけです。ただし竹久夢二が表紙を書いたものだけが高いのです。そうでなければ千円とか2千円程度です。本当は楽譜として処理されるべきことだと私は思っていますので、日本のどこかの音楽図書館でこのカタログを基に、全部そろえてくださったらと願っています。それから、ベートーベンの第5番「運命」、ドイツからも出ていますが、1916年8月アメリカビクターとして初めて出ました、これを賢治が持っていて、さっきの「レコード交換用紙」に書いています。これもちゃんと写真と楽譜付きで、ちょっとだけの楽譜ですけど載っていますので、こういうのもきちんと揃ったらまた有効だろうと思います。
 
○渡辺 ありがとうございました。それでは時間が来てしまいました。先生はいろいろなところで活動なさっており全部インターネットで検索可能です。実は11月29日土曜日に調布市グリーンホールの小ホールで、「響け海保オルガン」、かいほ海保オルガンというのがあるんですね。

○佐藤 この海保をわたしの友人が「海上保安庁でオルガン作ったのかと思った」という話をしてくれました。とんだ笑い話の1つになりました。

○渡辺 そこで先生がオルガンを弾かれるので、案内を受付のところに置いておきます。それから先生が書かれた『2000年度研究ノート、寺田寅彦の音楽・日本の古いリードオルガン(6)』。今日はもっぱら宮沢賢治のお話でしたが、先ほども触れられましたが、寺田寅彦と音楽ということも研究されておられます。こういう冊子を先生は作られておりますので、興味のある方はどうぞご覧になってください。5年前に私家版として出版されました。ご興味のある方は佐藤先生に直接どうぞ。
佐藤先生、本日はどうもありがとうございました。

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