音楽図書館協議会:Music Library Association of Japan


<報告・論文・情報


MLAJ研究セミナー(2003.11.7)
《音楽と文学・美術》レファレンス事例報告

市川啓子(MLAJ相互協力委員・国立音楽大学附属図書館)

 


■ はじめに

 国立音楽大学附属図書館でレファレンス業務を担当しております市川啓子と申します。MLAJ相互協力委員の一人として、音楽と文学、美術との関連の深いレファレンス事例の報告をさせていただきます。
私は日頃、レファレンス担当として利用者の求めに応じて、必要な資料や情報を探すお手伝いをいたしております。音楽大学ですので、普段は楽譜やCDを一緒に探してあげることが多いのですが、時として、一筋縄ではいかない「難問」に遭遇します。単に「音楽」という主題に絞れず、他館に協力を求めたりして、幅広く探っていかなければ解決できない問題です。そして、「難問」に当たれば当たるほど、その解決の過程で、多くの人々の協力や思わぬ出会いに恵まれ、また、音楽作品のより深い理解に導かれたりします。これは仕事をする上での大きな喜びとも言えます。
本日は、二つの事例を報告させていただきますが、どちらも、「難問中の難問」で、試行錯誤を繰り返しました。その過程で大変多くの勉強をさせていただいたものです。未解決の部分も残っておりますので、過程をご報告した上で、是非皆様のお知恵を拝借したいと思っております。

■ 事例1:ブラームス作曲「アルト・ラプソディ 作品53」

@ ゲーテの原詩(日本語訳)「冬のハルツ紀行」を探す 
A堀辰雄のエッセイ「ゲエテの『冬のハルツに旅す』」を探す

最初は、ブラームスの「アルト・ラプソディ」に関するレファレンス事例です。きっかけは、私立大学の元図書館員で現在事務局の仕事をなさっている友人からの依頼で、ブラームスの「アルト・ラプソディ」を聴きながら書いたとされている堀辰雄のエッセイを読みたいという教員がいるので、レファレンスを手伝ってもらえないかということでした。まず、国立音大図書館におけるこの曲の所蔵を調べてみました。楽譜3点、CD15点ほどあり、アルトと管弦楽に男声合唱も加わる作品です。当館所蔵CDの中の渡辺裕氏による解説には、次のように書かれています。少し長くなりますが、これからの話の導入のため、引用させていただきます。

「ブラームスの《アルト・ラプソディ》は、個人の具体的な体験をきっかけとして書き始められた作品であり、そのような体験を考えに入れることによってはじめて作品の真価を正当に評価することができるようなものである。1869年の夏にブラームスは、当時24歳だったユーリエ・シューマン(クララ・シューマンの三女)に対して恋慕の情をいだくようになった。ブラームスは、しかしながら、その気持ちを全く自らのうちに秘めていたので、シューマン家の人々はユーリエとマルモリート伯爵との縁談をすすめてしまい、ブラームスがそれによってどんなに衝撃をうけるか、などということには思いも及ばなかった。1869年の9月に彼はこの婚約のことを知り、深いショックをうけた。ほどなくしてブラームスはクララ・シューマンのところにやって来て、この《アルト・ラプソディ》を手渡したのであった。・・・(中略)・・・この作品は、彼の他の作品によっては久しく経験できなかったほどに、「ことばと音楽に刻み込まれた深い苦悩によって」クララの心を激しく揺すぶったのである。
・・・(中略)・・・ここで用いられている詩はゲーテの『冬のハルツへの旅』であるが、この詩が書き上げられてから43年ものちの1820年になって、ゲーテ自身が自らの詩に説明を加えている。それによるならば、ブラームスが作曲の際に用いた3つの節は、「当時はやっていた多感症という病」におかされて、『ウェルテル』の著者であったゲーテに「何度もくりかえしてしつこく自己の心情を打ち明ける」ので彼を閉口させていたような、当時山ほどいた青年のひとりに関するものである。ゲーテがのちになって、この詩に対してこのような突き放した見方をとっていたことを、ブラームスはおそらく知るよしもまかったであろう。ブラームスにとって、この詩句は、自分の心情を十分に表現したものであった。ブラームスはこの詩のもっている陰鬱なイメージに沈潜し、内容的にも形式的にもそれと類似した音楽詩をつくりだしたのである。」

それでは、ブラームス《アルト・ラプソディ》の原詩となったゲーテの詩「冬のハルツへの旅」を探すところに入りましょう。原詩といっても、日本語訳を探すわけです。音楽の場合もそうですが、ゲーテのような多作の作家の作品を探すには、「個人全集」を探すのが定番です。全集の何巻何頁に載っているかを調べるツールとしては、日外アソシエーツ刊の「個人全集・作品名総覧」のシリーズがあります。音楽で言えば“Heyer”に相当するものです。今回は、『世界文学個人全集・作品名綜覧』上・中・下(世界文学綜覧シリーズ5)(日外アソシエーツ 1987)によって、『ゲーテ全集』第1巻(潮出版社 1979)p.215〜217 にあることがわかりました。実際には「冬のハールツの旅」という詩の第5節〜7節部分のみが用いられていることもわかりました。目次を見ますと、「くさぐさの歌」の中の詩であるため「冬の…」からはコンテンツを入れている目録からも探せなかったことが判明し、直接OPACで探すより近道であったことがわかります。

次に、問題の、堀辰雄のエッセイ探しです。依頼人は、学習研究社の「堀辰雄」(人と文学シリーズ)の年譜で見たとのこと。当館には所蔵していませんので、東京経済大学より借り受けて見てみました。出典:『堀辰雄(人と文学シリーズ 現代日本文学アルバム)(学習研究社 1980)年譜(谷田昌平著)この年譜によりますと、昭和十四年(1939)三十五歳のところに、「一月、「ゲエテの『冬のハルツに旅す』」を「商大新聞」(一月号)に発表。」とあります。この「商大新聞」というのが、クセモノでした。昭和14年ごろ、「商大」といえば、東京商大、神戸商大、小樽商大・・・等が考えられましたが、NACSISでは、「商大新聞」と名の付く新聞は、「神戸商大新聞」のみです。一応、東京商科大学の前身である一橋大学にも所蔵調査を依頼しましたが、一橋大には「一橋(イッキョウ)新聞」しかない、また、その「一橋新聞」昭和14年1月号にも掲載なしとのお返事でした。ちょうど他の用事で神戸大学に行く機会がありましたので、神戸大学の図書館に紹介状を持って出向き、マイクロフィルムを前後の年を含めて隈なく閲覧させていただきましたが、全く掲載されていませんでした。そこで、神戸大学の図書館OPACからNDL-OPACを開けて、「雑誌記事索引」で破れかぶれに「ゲーテ、ブラームス、堀辰雄」と入れてみました。すると、なんと、中島国彦著「『生の充足』の構図―ゲーテ・ブラームス・堀辰雄」という論文が「国文学解釈と鑑賞」60巻9号(1996.09)p.48-53にあると出てきたのです。これは脈がありそう!…と意気込んで、帰り次第、所蔵館にコピー依頼しました。受け取ったコピーの始めには、こう記されています。

「堀辰雄は、自分自身の文学的営為のすぐ傍らに、美術や音楽の世界を置いた文学者の一人である。昭和初期において、美術や音楽を愛した数多くの文学者のうち、堀辰雄の愛好の仕方は、質量ともに他の文学者と比べてもひけを取らないように思う。」
そして、探していた文がありました。「ここで、わたくしが注目したいのは、この時期の堀の精神風景を多彩な韻文で浮き彫りにした作品集『雉子日記』(1940.7、河出書房)所収の小文『ゲエテの「冬のハルツに旅す」』(1939.1.1「商大新聞」)の存在である。」

相変わらず「商大新聞」とはありますが『雉子日記』を探せば、出ているのだとわかり、今度は河出書房の『雉子日記』を必死で探しました。都立多摩図書館では所蔵しているが、古いため貸出不可、コピーも不可とのこと。NACSISから帝塚山大学図書館で所蔵していることがわかり、著作権もぎりぎりクリア(堀辰雄は1953年没)されて、ようやくコピーを入手することができました。その嬉しさと言ったら・・・、震える手で、封を開けてみました。

「ゲエテの『冬のハルツに旅す』の断章にブラアムスが附曲したアルト・ラプソディを、一週間ばかり前からレコオドでをりをり聴いているが、…(中略)…手元にある鴎外の「ギョオテ傳」をみると…(中略)…病床にあって、私はかういう旅するゲエテの姿を描き出してゐた…」と始まる少し古めかしい文章から、ブラームスの作曲時の事情や後のゲーテ自身の冷めた見方も知らないながら、音楽作品と文学作品の融合のなかに深い生の充足感を見出したひとりの文学者の感動が伝わってきました。

しかし、これで終わりではありません。「待てよ、もしや、全集には?」との疑問が頭をよぎりました。まさか…とは思いながら、『個人全集・作品名綜覧』I〜IV(現代日本文学綜覧シリーズ5)(日外アソシエーツ 1985)を見てみれば、あったではありませんか!
『堀辰雄全集』第3巻(筑摩書房 1996)p.340 に所収とのこと。早速に地元の立川市立図書館より借り受けてきて、全ての謎が判明いたしました。解題によれば、実際は、昭和十五年一月一日発行の『一橋新聞』第300号に「うた日記―ゲエテの『冬のハルツに旅す』を読んで―」と題して発表されたとのことでした。やはり、最初の直感の通り、「商大新聞」は一橋大学の新聞を勘違いして本人または年譜の作者が記したもののようです。そして、さらに難しかったのは、掲載の年次が1年違っていたのです。最初に一橋大学図書館に調べていただいた時には「昭和14年1月1日号」でお願いしたので、「なし」との回答だったのでした。再度「一橋新聞 昭和15年1月1日号」で調査をお願いすると、「あり」との回答でした。なんという回り道をしたことでしょう。
反省・教訓としては、
@ 最初から「全集」の作品名総覧に行けば、すぐ見つかった。しかし、試行錯誤したおかげで、中島氏の論文に出くわした
A 年譜や書誌を作成する時、発行年や題名に細心の注意が必要。そうでないと、後からそれに基づいて探す人が思わぬ苦労をする
B 全集版というのは、音楽でもそうだが、校訂報告があり、事実関係を確かめるのに重要。マイナーな作品は全集版を探すべき
との3点が挙げられます。音楽でも生かせる教訓と思わぬ文学作品との出会いを体験できた事例でした。

■ 事例2:リスト作曲「二つの伝説」

    第1曲 鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ
    第2曲 水の上を歩くパオラの聖フランチェスコ
    ⇒題材となった小説と絵画を探す

フランツ・リストという作曲家は、数々の標題音楽を生み、音楽と文学・美術との独特の関係を築いた作曲家とされています。そこで、作品を演奏する上でも、鑑賞する上でも、「楽譜」と「音資料」のみならず、文学作品や美術作品へのアプローチが必要になる作曲家と言えます。今回の事例は、ピアノ曲「二つの伝説」の題材となった小説と絵画を見たいという教員と学生からの、ほぼ同時期の要望に応じて行ったもので、当館レファレンス担当3人がかりで調査を継続しているところです。
実は3人とも、この調査に入る前まで、聖フランシスコはアッシジの…しか知りませんで した。アッシジの・・・とパオラの・・・は別々の聖人であるという認識から始まり、だんだんに深みにはまり、まだまだ、抜け出せないでいます。特に第2曲目は難問で、皆様のお知恵も拝借したいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

まずは、『最新名曲解説全集』第15巻独奏曲p.436-437にある木村重雄氏の解説から出発しました。引用させていただきます。
 「第1曲 鳥に布教するアッシジの聖フランソア
13世紀の初め、イタリアにあって、多くの徳行をなし、フランシスコ教会の設立者として著名なアッシジの聖フランシスが、小鳥に教えをほどこす場面を音画的に取り扱った小説『アッシジの聖フランソアの小さな花花Petites fleurs de St. Francois d’Assise』より材を仰いでいる。・・・(中略)・・・
  第2曲 水面を歩くパオラの聖フランソアアルテンブルクの別荘の書斎で日夜ながめていたシュタインレ(Steinle 1810-85)の画によったもので、題材は「ジュゼッペ・ミチマルラにより記されたパオラの聖フランチェスコの生涯Vita de San Francesco di Paola, descritta de Giuseppe Miscimarra」よりとられている。
 燃える石炭を片手に、他方の手を高くかざした、パオラの聖フランシスが波上を歩む姿を描写的に綴ったもので、その手法は卓越しており、また技法的にもきわめてむずかしい。・・・(後略)・・・」

 さて、リストはフランス語でこの曲の初版を出しており、聖人はイタリア人であることから、フランス語名:聖フランソア、イタリア語名:聖フランチェスコ、英語名:聖フランシスコ、聖フランシスが入り混じっていることが、上の木村氏の解説からもおわかりいただけると思います。これも、調査を難しくしている一面でもあります。

まず、第1曲の題材となった小説の日本語訳ですが、この通りでは、NACSISも国会もヒットせず、「聖フランチェスコ」とか「聖フランシスコ」とか「アッシジ」とか「小さき花」とか思いつく単語を色々入れると、たくさんの翻訳本があることがわかりました。古いものでは、『イ・フィオレッティ(小さき花)』 大沢章訳 (エンデルレ書店 昭和23)、新しいものでは『聖フランシスコの小さき花』聖フランシスコ会(ヴェニス)編監/石井健吾訳(あかし書房 1982)ほかサン・パウロ社、新世社等からの出版等、数々出されていることがわかりました。小鳥への説教は第16章の最後の部分のみでした。

絵画の方は、まず、『西洋美術館』(小学館 1999)を見ました。その「聖フランチェスコと美術」と言う項目にボナヴェントゥーラ・ベルリンギエーリ作「聖フランチェスコと彼の生涯」という絵を見出すことができ、これが最古のものであるが他にジョット作のものもあるとの情報も得ました。そこで、イタリアの美術館の画集を探し、『原色世界の美術3 イタリア 1ウフィツィ美術館ほか』(小学館 昭和58)のなかにジオット作「小鳥に説教する聖フランチェスコ」という絵を見出しました。しかし、白黒で小さなものです。カラーでわかりやすい絵もあるのでは・・・と思い、他館のOPACを検索してみましたら、『愛されるより愛することを―アッシジの聖フランシスコ』(学習研究社 1992)と言う写真集を武蔵野美術大学図書館で所蔵していることがわかりました。早速、武蔵野美術大学図書館より借り受けましたところ、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂には壁画がジョット作(大聖堂上堂)とシエナ派画家(大聖堂下堂)の二種類あることがわかりました。ジョット作の絵画は有名ですが、当館にある『ジョットの藝術』佐々木英也著(中央公論美術出版 平成元年)によりますと、ジョットの作であるかどうかは美術史上論議の多い問題とのことで、それは、実作の多くは助手にゆだねられるという共同作業に起因しており、音楽の偽作問題とはまた一味違った美術史上の問題をも知ることになりました。

さて、第2曲の題材となった「パオラの聖フランソア」ですが、『キリスト教人名辞典』(日本基督教出版局 1986)によれば、アッシジのフランチェスコが1226年に没してから約200年後の1416年に生まれたイタリアの修道士で、少年期にフランシスコ会で生活し、やがてミニモ会(最も小さい者の意)を創立し、後に、フランス国王ルイ11世の最期を看取り、シャルル8世の教育にも貢献した聖人であることがわかりました。
ミチマルラによる伝記は、リストの当時は有名だったようですが、日本では原書も探せず、翻訳書も見当たらず、まったくのお手上げ状態です。ただし、この曲の題材とした箇所については、リスト自身が初版の楽譜の序文で引用していることが判明しました。(後でわかったことですが、インターネット上でこの部分の翻訳が見られ、かつ、『新編世界大音楽全集』音楽之友社 「りスト ピアノ曲集 II 器楽編 18」(音楽之友社 1991)に、野本由紀夫氏による翻訳が掲載されています。)

次に、「アルテンブルクの別荘の書斎で日夜眺めていた」とされるシュタインレの絵を探すのに大変難航いたしました。シュタインレという画家については、『新潮世界美術辞典』(新潮社 昭和60)にこのように出ていました。

「1810.7.2-86.9.18 ドイツの画家。ウィーンに生まれ、フランクフルトで没。1828-33年ローマに滞在し、ナザレ派に属したが、1839年以後フランクフルトで壁画や祭壇画の制作に従事し、とくに聖母画家として名声を得た。…(後略)…」

そこで、ナザレ派の画集などがあれば、出ているのでは…と考え、美術学部を有する大学の図書館に次々に所蔵調査をしていただいたのです。しかし、どこも「なし」との回答で、またまた、途方にくれてしまいました。また、当館所蔵の“ Lexikon der Christlichen Ikonographie” 6: Ikonographie der Heiligen Crescentianus von Tunis bis Innocentia Herausgegeben von Wolfgang Braunfels. (Herder, 1974) というドイツの事典も見てみたのですが、「パオラの聖フランチェスコ」の項目はあり、他の絵は出ているのですが、シュタインレのこの絵の情報は得られませんでした。インターネットによれば、シュタインレの画風はわかります。

気持ちを入れ替えて、当館所蔵のリスト関係の図書や楽譜を当たってみました。シュタインレ作は、未だに見出せませんが、シュタインレ以外と思われる絵が見つかりました。それは、楽譜A.Cortot版 Liszt: Deux Legendes (Editions Salabert [1949]) (Paris 1860)に掲載されている初版(?)のタイトルページの版画です。同じものが、図書”Franz Liszt in Selbstzeugnissen und Bilddokumenten. Dargestellt von Everett Helm (Rowohlt,1972)p.91にも載せられていますし、日本語訳『リスト』(大作曲家)野本由紀夫訳(音楽之友社 1996)p.173にも見出せます。木村氏の解説にあるように、「燃える石炭を片手に、他方の手を高くかざした、パオラの聖フランシスが波上を歩む姿」をあらわしています。でも、作風からして、これがシュタインレの絵であるという確証は得られないのです。依頼者には、一応、現在までに探せた絵画として、これを提示したのですが、未だに、「どこかにシュタインレ作の絵があるに違いない」という思いが抜け切れません。

なお、インターネットから、久元祐子氏のホームページをみつけ、そこに「絵画に描かれたパオラの聖フランチェスコ」というステンドグラス風の絵を見出すことができました。
また、楽譜Legendes/Franz Liszt.(Editio Musica, c1980) (Z. 12 313)の序文(Rome 1866 Franz Liszt署名入り)によれば、ヴァチカンの大広間に1500年代に描かれた壁画があるらしいこともわかりました。しかし、その絵もつきとめられていません。

というわけで、すっきりとした解決には至っていない中間報告的なものですが、以上をもって、私の今日の事例報告とさせていただきます。

★この事例報告の後に、会場からのご助言もいただき、当館所蔵の図書をさらに徹底して探したところ、Morrison, Bryce. Liszt. (The illustrated lives of the great composers) ( Omnibus Press, c1989)の87頁に“St Francis of Paola walking on the waves”と題する絵が掲載されていることがわかりました。E-mailで問い合わせたところ、有り難いことに、「リストが言及しているシュタインレSteinleの描いた絵の複製である」とのお返事をいただきました。事後報告とさせていただきます。

★国立音楽大学附属図書館の展示コーナーで、「リストの《伝説》と二人の聖フランチェスコ」と題する資料展示を2004.1.12-3.13行っております。また、配布資料をホームページ上にPDFファイル(852KB)で公開していますので、ご興味のある方は、ご覧ください。

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