音楽図書館協議会:Music Library Association of Japan


<報告・論文・情報


MLAJ研究セミナー(2003.11.6)
(於:東京国際フォーラム)
《講演「日本の近代文学と音楽」》

粟津則雄(いわき市立草野心平記念文学館館長)

 


○粟津 粟津です。「日本の近代文学と音楽」というテーマをいただきましたが、果たして、皆さんに何かお役に立つようなことをお話し出来るかどうか。私は音楽史家でも音楽評論家でもないし、文芸評論家としても、わが国の近代文学における音楽のかかわりについて事こまかに研究したこともないんです。
 ただ、ごくおさない頃から、私は、文学少年である一方、音楽がとても好きでした。物心がついたときには、まわりでは、ベートーヴェンや、シューベルトや、モーツァルトなどのレコードがなっていましてね。音楽が日常の一部になっていました。単に日常の一部であったばかりでなく、日常の頂点に、日常をこえたある純粋な力として存在し続けていたようです。ごくおさない頃ですが、ある夏の日のまっぴるま、庭のすみでひとりでぼんやりとしていたとき、近くの家のラジオから、ラヴェルの『ボレロ』がきこえて来ましてね−もっとも、そういう名前の曲だということは大分あとになってから知ったんですけれども−きいているうちに体全体が痺れていくようなふしぎな感覚を味わったんです。私がそのときかかえ込んでいたおさない倦怠とその曲とが、そのとき一挙に結びついたんでしょうね。
それからもうひとつ、戦争末期のことで、私は旧制中学の4年か5年だったと思いますけれども、たまたまある日、ベートーヴェンの第7番のシンフォニーをきいておりました。おさない頃から好きな曲だったので、何気なくきいていたんですが、第2楽章のあの有名な「アレグレット」にさしかかったとき、ふしぎなことが起ったのです。きいているうちに、その音が眼前の蓄音機からきこえてくるものとはどうしても思われなかったんですよ。窓の外にひろがる薄曇りの空のなかに今きいている音楽がそのまま結晶しているような、何とも異様な感覚を味わいました。その後、旧制高校の頃には、やはりベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ32番ハ短調」や、モーツァルトの「ピアノ協奏曲20番ニ短調」や「交響曲40番ト短調」に関して、また、大学のときには、バッハの「無伴奏チェロ組曲」や「マタイ受難曲」に関して、同じようなことを経験しました。私にとってこれらは、単なる音楽体験として片付けられることじゃないんですね。そのときそのときの私の文学上の志向とからみあって、私の精神の形成のもっとも根源的な節目になっているんですよ。そういうわけで、私の場合は、音楽と文学とが、実に濃密なかたちで、だけどいかにも自然に結びついていたと言えると思う。だけど、わが国の明治以降の音楽と文学の場合は必ずしもそういうことにはならなかった。その点、たとえば近代フランスの場合はずいぶん様子がちがうんです。
実は、先週の金曜日、上野の東京文化会館で「フランス近代音楽と象徴詩」というレクチャー・コンサートがありまして、私はそのレクチャーの方を受け持ったんです。それで、ボードレールやヴェルレーヌやマラルメといった象徴派の詩人たちの詩に、デュパルクやフォーレやドビュッシーなどが曲をつけたさまざまな歌曲を改めてきいてみたんですが、実に面白かったですね。19世紀のイギリスにルネッサンスについての見事な本を書いたウォルター・ペイターという批評家がいますが、彼は「あらゆる芸術は音楽の状態をあこがれる」と語っているんです。音楽の使う音という素材は、ことばはもちろん、色とくらべても、はるかに純粋のものでしょう。それにその表現も、文学や美術とくらべて、現実的な拘束がはるかに少ない。自在で多彩な、しかも純粋な表現が可能になるのですよ。ペイターのことばはこういう点から発しています。
 もちろん、音楽とたとえば文学とのこのような関係は、昔からあったはずですけれども、フランス象徴詩派が活躍した19世紀中頃には、その関係は、きわめて緊迫した濃密なものになっています。ポール・ヴァレリーは、20世紀フランスを代表する詩人、評論家ですが、彼は「象徴主義は、詩が、音楽からその富を奪い返す運動である」と言っています。面白い言い方ですね。音楽は、詩人の表現意識そのもののなかに深く入りこみ、それにさまざまな刺激を与えるのです。ただ注意しなければならないのは、この時期には、詩が音楽に近づく動きだけではなく、音楽が詩に近付く動きがあるという点です。先程名前をあげた、デュパルクやフォーレやドビュッシーといった作曲家たちは、ボードレールやヴェルレーヌやマラルメといった象徴派の詩人たちの詩に曲をつけています。
 もちろんそれ以前から、音楽と文学はさまざまなかたちで結びついています。だけど、フランス近代音楽を象徴詩との結びつきには、その延長上にあるものとして片付けられないようなところがありますね。ボードレールもマラルメもヴェルレーヌも、音楽に、とりわけワグナーの音楽に熱中していましたが、一方、作曲家の方も、彼らの詩に、単なる音楽の素材というかかわりをこえて深く結びついたんですよ。詩のうちに見られる、人間の感覚や感情や思考の、さまざまに屈折した複雑なからみ合い。ことばという素材が持つ、音をそのひとつの要素として含みながらも、音とはまた異なるひろがりと構造とを持った表現の可能性。そういったものが、作曲家を鋭く刺激したんですね。もちろん、シューベルトをはじめとして、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、マーラーに至る、ドイツのロマン派の作曲家たちも、詩と音楽とが合体した、かずかずの見事な歌曲を書いています。けれども、フランス近代音楽と象徴詩の場合ほど、詩人と作曲家との双方が、それぞれ強く自分を主張すると同時に、作曲家は詩人の表現意識の、詩人は作曲家の表現意識の奥深いところにまで入り込み、そこでさまざまに反応するということはないんじゃないんでしょうか。そういうわけで、音楽と詩は、お互いのなかに、富を見出し、富を与え、あるいは富を奪い返しているんです。
 そういうこととくらべると、明治以降のわが国の文学と音楽とのあいだにはそういう幸福な、稔り多い支え合いは、なかなか見出せないのですよ。幕末の万延元年に−この年号は大江健三郎が小説のタイトルに使っていますから御存知の方が多いと思いますが−この年に、幕府がアメリカとヨーロッパに使節団を送っているんです。このときの記録が残っていてなかなか面白いんですが、今こんな話を持ち出したのは、使節の日記のなかに、彼らがはじめて西洋の音楽に接したときの印象が書かれているからなんですよ。もっともちゃんとしたコンサートに出かけたわけじゃない。あちこちの町で、軍楽隊の演奏で歓迎されるという程度のことことなんですが、それに対する彼らの反応はひどく冷たいんです。時には嫌悪感にあふれています。騒々しいとか野卑だとか、そういう印象を日記などに書きつけています。
 これは必ずしも,彼らに音楽に対する感受性が乏しかったということじゃない。そういう人もいたでしょうけれども、それ以上に重要なのは、その頃の彼我の音楽の質のちがいです。江戸末期に、邦楽は、さまざまな新しい技法、新しい節まわしその他を次々と作り出して繊細の極に達しています。使節として出かけた武士たちがそういったものによく通じていなかったにしても、それなりに親しんでいた。だけど、そういう音楽になれていればいるほど、西洋音楽に接するとまず異和感が先に立つのですよ。
 わが国の音階について、よく「ヨナ抜き五音階」ということが言われます。昔は音名を今のように「ハニホヘ」というふうには言わず、数を表す「ヒフミヨ」という文字を使ったんです。すると、「ヘ」音は「ヨ」音ということになり、「ロ」音は「ナ」音ということになり、「ヨ」音と「ナ」音とを抜いた、「ヨナ抜き」の五音階、一種の短音階ですが、これがわが国の音楽の基本だったんですね。こういうものにききなれていると、西洋の音楽にはなかなかなじめない。それに、和音の柱をつらねた西洋音楽の構造と、たとえば、単音が微妙な表情を示しながら展開する音楽の展開の仕方と、どうもなじみにくい。そういうことがあるんですね。嫌悪が先に立つ。
 これが絵の場合とか文学の場合は、多少様子が違っていましてね。「文学も同じじゃないか。絵もそうじゃないか」、そう思われるかもしれないけれども、それは文学の場合には、江戸期において、例えば芭蕉とか蕪村という俳人。あるいは近松のような劇作家。あるいは里見八犬伝の馬琴のような小説家。ある意味では実に独特の完成度に達しているわけですよ、文学の場合は。だからそれはヨーロッパ文学に突き当たったところで、全く異物とは思わない。音楽のように直接感覚に来るのではなく、いろんな観念や筋書きや心理や感情ってものが入ってきますからね。そういうものに関しては、われわれは江戸期において既に、ある種の完成に達している芸術的なものを成就しているわけでしょ。受け入れやすいのです。ところが感覚だけになりますと、これはやはり非常に受け入れづらい。
 絵の場合もそうですね。絵の場合も江戸期において日本の絵画は、世界に類のないような独特の個性を作り上げた。それがあるものだから、ヨーロッパの洋画が入ってきましても、最初は混乱しますよ。混乱はするけれども、なおかつその混乱の中から自分のものを受け入れやすい。例えば司馬江漢もそうだし、北斎など浮世絵師にとっても、ヨーロッパ絵画の遠近法だとか、そういったものが非常に巧妙に利用できるわけですね。
 ところが音楽はそうはいかなかったわけです。文学は翻訳があるし、絵もなかなかじかに見られない。ところが、音楽そのものはそのまま音が聞こえるじゃないか、理解しやすいじゃないか、国境がないではないかと思われるかもしれないけれども、観念その他の助けがないと、今申し上げたようなずれがあった場合にはかえって受け入れづらいところがあるんです。音階から和声から、ことごとくがはっきり違ってますからね。嫌悪が先に立つ。だから非常にわれわれにとっていろんなヨーロッパの文化の中で、音楽は受け入れにくかったわけです。
 おまけに、明治の学校教育は一切がドイツ風の音楽理論、音楽教育で統一した。そうしますと、かろうじて息をつないでいた江戸時代のいろいろな音楽上の複雑に達成された表現が、新しい耳からは遮断されちゃうわけです。だから、それまで繊細な地点に達していたわれわれの耳そのものが、明治の音楽教育によって、いわば構造的に破壊されるということが起こってくる。だから、ある言葉がおのずから音楽になるっていうふうな、普通の日常の言葉と音楽の間に、それ以前にあったような具体的な生き生きとした交わりがどうも薄くなるんですね。
 歌なんかをお聴きになってもそうですけれども、例えば、さっき申し上げたデュパルクの付けたボードレールの「旅への誘い」という詩がありますね。あれは厳密に申し上げますと、「Mon enfant,ma soeur, Songe à la douceur D‘aller là-bas vivre ensemble」という5音節、5音節、7音節と続く大変音楽的な詩なんだけれども、デュパルクが付けますと。

Mon enfant,ma sœur, Songe à la douceur D’aller là-bas vivre ensemble!
Aimer à loisir, Aimer et mourir Au pays qui te ressemble!
(訳:私の優しい女よ、恋人よ 幸せを思い描くのだ 彼方に行き 共に暮らすことを!心ゆくまで愛し 愛し そして死ぬことを お前にふさわしい国で!)
(引用:ボードレール:『旅への誘い』)

今日はリサイタルじゃありませんのでやめますけれども(笑)。そういう形でごく普通の読みが、ほんのちょっとリズムが乗ってメロディがかかりますと、音楽に変わっていく。そういう日常言語と音楽表現との間に、非常に幸福なつながり合い、幸福な応じ合いがあったわけですね。それが明治の非常にヒステリックで、しかも鈍い日常口語と、ヨーロッパ的ないろんな音階法に従った旋律の間に結びつかない。あるいは非常に作りづらいということが起こる。一つは別のある旋律世界であり、日常は日常でまた別のものである。そういう非常に不幸なことが起こったわけですよ。
 だからわれわれの音楽に対する受け入れ方と、われわれの文学表現との間に、ヨーロッパの中に見られるようなそういう助け合い、照らし合い、支え合いというものが生まれづらかったということがいえるのではないかと思うんです。ずいぶん長い間われわれは、わが国の人が作曲家として世界的になるなんて夢にも思わなかった。最近では、松村禎三とかあるいは武満徹とか三善晃とか、世界的な評価を得ている作曲家が出てまいりましたけれども、一番音楽は遅く来たわけです。わが国における芸術表現の中では。その根底には、申し上げたような明治の学校の音楽教育と、伝統的なものとの間の乖離。それからごく普通の日常の耳と、音楽に関する融合の間にあるずれ。それがいろんな形でもってかかわってきたんじゃなかろうか。そんな気が私にはいたします。
 それではわれわれは、ただそういう嫌悪感だけであったのか。どうもそうじゃない。これはどうもわが国の日本人の大変見事な受け入れ方、感受性だと思うのだけれども、そうじゃないんですね。さっき申し上げたように、万延元年の西洋への特使たちは嫌悪感が先に立ったんだけれども、明治4年ですかね、岩倉具視を団長としてまた別の連中が、2年近くにわたってヨーロッパの各国を巡る。スペインとポルトガルは省いたようですけれども。その記録が残っていますけれども、実に驚くほどのいわばナイーブさ、素直さでもって、ヨーロッパ音楽の魅力を感じ取っているわけです。それが日常の中の、言語との間のある種の結びつきまでいかないんだけれども、受け入れてしまう。これはわが国の文化の特質ですね。実に柔軟に受け入れて、それを時と共にだんだんと血肉化していくという、わが国の伝統的な文化の特質がここにも出ていると思います。
 明治30年ごろになりますと、そういった連中のわが国の感受性が、いろんな形で表れてくる。例えば、上田敏という詩人がいますね。上田敏も大変音楽好きで、島崎藤村なんかも友達だけれども、藤村の『春』に書いているところによりますと、いろんな仲間の中で最も文学的に高い教養と見識と耳を持っていたのは上田敏らしい。その上田敏は、例えば、これはシューベルトの皆さんよくご存じの「魔王(エルケーニヒ)」という曲を聴いた時の印象なんですけれども、こんなふうに。明治29年です。

(朗読)「誰ぞや風の夜に馬の音」終にヴィ・・・ンドと張上げた高音が、其儘ではどうしても治まらない、まだ上がるろうか、それとも斜(なぞえ)に滑落ちるだろうか、何しろ不定、疑問、不審等の意が充分に顕われて、歌詞の意味としっくり合っている事が、咄嗟の間、自から聴く人の胸に浮ぶと思う間に、すぐ次の音は、上がりもせず、下がりもせず、同じ調子で平らに延して受付いである。「児を連れたる父親ぞ」「キ・・・ンド(=子供)」と結んだ終の音は、前の疑問の節末に対して、確かに受答をしている。(略)よく考えてみると、此曲の感動力は、全くくわせい和声の妙から来ている。あの態とらしく無い旋律の美は、一般の景状を表わしている伴奏の音楽から出た必然の結果とも言える。それだから、曲の終に近づいて、低音部の楽声が地団太ふんで迫上げて行って、態と主調音との関係を乱す所で止めてあるのも、段落を際立たせ、終局を浮上がらせる巧妙の手段である。重来った今迄の激昂騒擾が、はたと止んで、悲劇の完結は、畏怖の沈黙に終っている。此所暫時全く伴奏が無い。懐の「児ははや・・・ことき・・・れぬ」と−子供はもう死んでいた、魔王のおしまいのところですね−。れちたちを宣叙調のように歌い収める一番終の所に、あんだ温和んて速度のくわげん和絃が伴うばかりだ。然し形成が必迫し、感情が緊張する為、曲の結の含蓄が自然と胸に徹えて、音楽の形式も丸く纏がついてる。
(引用:上田敏『うづまき』)

最近の音楽評論家はこういうふうには書かないですね。並々ならぬ音楽上の知識、音楽上の教養があることは分かるけれども、同時にそれを言葉にする。その言葉ってものがぴたりと曲の姿に、いわば重なり合ってる。そういう印象をこの上田敏の言葉を読んで感じざるを得ない。ここ数十年の間にここまで来てしまうわけです。
 これは詩の場合も同じでね、例えば明治17年に有名な新体詩が出ましたけれども、そのほんの14、5年後、明治30年代の後半にはいわゆる明治象徴詩といわれる蒲原有明とか薄田泣菫とかそういう象徴詩の詩人たちが現れて、非常に見事な言語上の感性を示すようになった。そこには単に新体詩的な平凡な感情の表現ではなくて、非常に複雑に屈折した、ヨーロッパの象徴詩の詩人たちが持っているような、二重、三重に屈折した言語の美がきっかりとつかんでとらえているところがあるのですね。そういうことを詩人たちはやったわけです。作曲家たちは、どうもそこまではとても行けない。ところが音楽を聴く耳は、既に明治29年の今の上田敏の言葉をお聞きになって分かるように、実に見事にヨーロッパ音楽の、西洋音楽の骨髄に近づいているような印象をわれわれに与えるわけですよ。
 次は同じ上田敏ですけれども、「トリスタンとイゾルデの第3幕への序曲の聴き方」を読んでみます。

(朗読)「ヴィオロン」(ヴァイオリン)は、三度の音程を保って、啜泣くように、恨むように、訴えるように、呻くように、迫上げた。(略) 英吉利笛(イングリッシュホルン)という一種の角(かく、角笛のようなもの)で此の調を吹く事になっている。(略)始めの一声は低く遠長く、第二の声は高く又長く漂って、後は飴屋のちゃるめら哨吶のように、曲折して段々下って行くが、終の二声をまた朗々と恨長く、吹収める。
(引用:上田敏『うづまき』)

「ローエングリンの第1幕への前奏」というのはこんなふうに。

(朗読)此の神々しく美しい序楽のもちふ楽旨は、ヴィオロンの最高音に奏されて、次に木製の管楽器(木管)に移り、ヴィオラとセロが之を受けて、種々の角笛に伝え、終にぶらす黄銅の楽器に移って、光明歓喜の大音声に達するが、やがて夕照の淡く消えるように、微かに細くなって行って、打沈んだ絃声の囁に終った。
(引用:上田敏『うづまき』)

言葉が何やら古風めかしいけれども、これもまた単なる解説の受け売りじゃなくて、上田敏が自分自身の感性に従って、自分自身の言語感覚に応じてこのローエングリンとかトリスタンとイゾルデの音楽の持つ効果、表情を非常に正確に表現していると思いますね。読んでいると、耳と言語がここでは非常に生き生きと伝え合い、支え合っているような印象を感じるんですよ。
 さらに上田敏が別のところで、日本の音楽とヨーロッパ音楽の違いについて触れておりまして、日本の音楽はやっぱり節です。つまり延々と長く続き、あるいは条々とたなびくようなある節であり、単音の音楽である。それに対しヨーロッパの音楽、西洋の音楽はハーモニーである。これまたわが国の音楽と西洋音楽の間の、ある本質的な違いを的確に聴き取って、しかも、それをわが国の生活とヨーロッパの生活との構造そのものにまで話を伸ばしながら語っているわけで、望遠の耳と、耳の持つ意味合い、日本の音楽の持つ構造とその社会的政治的意味合いとの間の結びつけ方は、やはり並々ならぬこの人の力かなと思われますね。
 こういう見事な耳が上田敏の、皆さんご存じの「落ち葉」というヴェルレーヌの詩とかですね、翻訳、「秋の日の ビオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」。あの訳詩の持っている、あの音調。古風だけれども、非常にみずみずしいあの響きの根源にあるということを、われわれは着目する必要があるだろうと思いますね。
 こういうことができたのは、上田敏が最も教養的には深かったらしいけれども、藤村なんかもそうです。藤村も家庭的には別に音楽は関係なかったらしいけれども、やがて東京に参りまして、明治女学校の先生になります。彼はヴァイオリンが好きなんですね。それでヴァイオリンを習う。さらにピアノをやろうと思って、仙台から戻ってきた後には東京音楽学校の専科に入りまして、ピアノを習う。そういう形で音楽が、これまた藤村の文学表現の基本にある位置を占めるようになる。これはやはり『若菜集』の持っている伸びやかで自然な響きとの間にある関係があるような気がしますね。
 そして、彼はヨーロッパへ行きます。彼がびっくりしたのは、オペラにもいろんなコンサートにも感激したのだけれど、ちょうどそのころは、例のディアギレフその他がやっているロシアバレエ。ニジンスキーとかですね。ロシアバレエがストラヴィンスキーなどの曲を始めた、大変な衝撃を特にフランスの楽壇に起こした時代です。それを早速聴きに行っているんですよ。オペラとかそういったコンサートよりもバレエがすごい。ラヴェルの「ダフニスとクロエ」をニジンスキーが踊ったのを聴きに行っていましてね、大変それに感動したりしている。
 さらに藤村にしてもほかの人にもそうだけれども、明治の36年ぐらいに今から考えるとちょっと不思議な気がしますが、わが国にはいわゆるワグナー・ブームが起こっているんですよ。明治36年。ワグナーなんて最近じゃないかと思うかもしれないけれども、そうじゃないんですね。そのころに上田敏にしても藤村にしても、あるいは後で申し上げますけれども石川啄木にしても、ワグナーに夢中になっていたんです。永井荷風なんかもそうですね。皆ワグナーの写真を飾ったりしてワグナーに夢中になる。ワグナーなんて聴く機会ないですよ。荷風やなんかはヨーロッパ行っていますからニューヨークやフランスでワグナーを聴く機会があったけれど。藤村も聴いたらしいけれど。あとは啄木にしても、それからその他の詩人連中にしても、ほとんどわが国では聴く機会がない。ほんのわずかないろんな前奏曲その他を聴いたり、あとは本で読んで内容を知るだけだけれども、もう夢中になっちゃうわけですね。こういう、つまりヨーロッパ音楽のある種の、いわばデカダンスの極に達したようなワグナー音楽に、明治36年という、最初に岩倉具視が行ってからまだ30年ちょっとしかたっていないような時期において、わが国の文学者たちの耳は近づいた。これはちょっと考えようがないほど早くて、しかも徹底的なわれわれの先輩の感性というものの、みずみずしさと強さをわれわれに感じさせてくれると思うんです。
 石川啄木は奥さんがピアノを弾いたりしまして、ヴァイオリンも弾いたかな。最初は奥さんのピアノに夢中になって、石川啄木もまた音階を弾いたりしますけれども、これもまたワグナー狂なんですよ。石川啄木が大変尊敬したのは、トルストイとニーチェ、それからワグナーなんですね。これも皆さんよくご存じのあの啄木調の詩からあまり考えられないようなことなのだけれども。
 ニーチェは非常に激しく自分自身を、いわゆる超人という観念でもって徹底して押し出して、人間を超えようとした。ところが、トルストイは逆にそういう人間の増上慢を批判して、神のままにあるという、そういうところに晩年においては達している。啄木に言わせるとワグナーはその両方を総合したというんです。「ワグナー論」という、中断しましたけれども晩年にそういう評論を書き出して。オペラの舞台に接する機会はありませんから何も聴いていないのに。多少聴いたのは、たまたま土井晩翠に会いまして、晩翠のところでタンホイザーとかローエングリンとかそういったもの、SP、昔のレコードだけど、それを聴かせてもらって興奮している状態くらい。ところが、われわれの文化では、そういうわずかな耳における経験と、それが彼の中に燃え上がっている観念と、彼の炎を支えるトルストイとかニーチェ、そういったものがワグナーという観念の中に自分自身を溶かし込んでいくということが起こるんですね。不思議な文化です。皆さん、最近だんだんとわが国の文化に関して自信が無くなっているような方が多いらしいけれども、そんなことない、こんな国はないですよ。
 話は横にそれますけれども、例えば漢字とカタカナとひらがながあるでしょ。こんな国語ないですよ、世界中に。まず漢字が入ってくる。漢字を万葉仮名なんかにして使っている。そのうちにその万葉仮名の草書体を崩して、ひらがなができる。さらに漢文の「てにをは」に付けるあの文字を簡略化して、カタカナができる。三つ併用するんですよ。こういうことはほかの国じゃない。どっちかにしちゃうわけです。われわれはその三通りの言葉遣いというのをみんな生かしながら、それに独特の表情と語感を与えて、それによって表現する。例えば、原民喜の原爆の詩はカタカナと漢字でしょ。それから、大手拓二とかあるいは作家の、あるでしょ、ひらがなの多いの。同じ詩人もカタカナとひらがな、漢字とひらがなを使い分ける。そういうものをみんな共存させながら、そこに他の国語にはあり得なかったような表現の可能性を見い出してくるのが、われわれがやってきたことなんです。
 例えばわれわれの和歌にしても、これは家持にしてもだれにしてもみんな中国の歌の影響が非常に強い。わが国では昔、花っていえば桜ではなく梅だったんですよ、万葉、平安初期まで。桜は咲いていた。ところが梅だった。なぜかと言うと、梅は中国の花なんです。それを万葉時代の歌人たちは、中国から輸入して庭に植えて、それを歌ったわけです。桜は咲いている。あれは自生の花ですからね。ところが、それでは歌の対象にならない。だから万葉で桜の歌は40ぐらいだけど、梅は150以上あります。その中から日本独特のものが出てきますと、変わってきて桜になってしまう。だから皆さんよくご存じの「いにしえの大宮人がいとまありや」という歌があるでしょ。あれは昔、梅をかざしているわけです。いつの間か桜をかざしているというふうになってしまう。そういう形で、平安中期になると定朝のような、和風の、和調の彫刻が現れて、あるいは宗教においてもわれわれのよく知っている浄土宗のような、いかにも日本風な宗教が出たりする。                 
 そういうふうに中国の影響が非常に強いにもかかわらず、歌人たちは自分たちの歌の中に中国の言葉、漢語が入ってくることを断じて拒んだ。これは不思議ね。本当ならあれほど影響を受けたのだから、入れたっていいんですよ。漢語がいっぱいになった歌を作ったっていいのだけれども、彼らは歌は和語、文章は漢語を使って書く。こういうふうに使い分ける。これは非常に融通無碍な表現なのだけれども、そういうところの中にわれわれの言語感覚の、実に複雑で繊細な特徴が出てるんですね。それがどうも文学にもあるんだな。
 そういうことがだんだんと広がっていく。さっき申し上げたように、啄木もヴァイオリンをだれかから本当に買ったか、だれか横取りしたのか分かりませんけれども、奥さんに渡した。奥さんはヴァイオリン、ピアノを弾いたりしている。荷風もそうですね。荷風という人も大変上流階級の男で、お父さんの金でもって暮らしたような人ですけれども、やがてニューヨークに行って、フランスに行って、リヨンの銀行員になります。彼のヨーロッパでのいろんな日記を見ますと、これまた大変な音楽マニア。日記をいくつか抜粋しますと、こうなるんですね。明治39年です、1906年。彼は1905年、明治38年12月にニューヨーク支店に行くんですね。早速着いた途端にマンハッタン辺りのほうへ行って、メーテルリンクの戯曲「モンナ・バンナ」を見る。それから12月6日には、メトロポリタンで「ヘンゼルとグレーテル」を聴く。12月18日にはヘラルドスクエア劇場で「カルメン」を見る。これは劇です。それから39年1月3日には、寒くて雨が降っているのだけれども、オペラ「ファウスト」を見に行こうと思ってメトロポリタンオペラに行く。ところが切符が売り切れで行けなかった。リーフレットだけ買い付近のバーに入って、音楽を聴きながらそれを読んだ。1月4日、翌日ですね。4日は「リゴレット」のリーフレットを読む。5日、「トリスタンとイゾルデ」を聴く。こんなふうに書いている。「余は深き感動に打たれ、詩歌の極美は音楽なりとワグネルが深遠なる理想の幾分をも稍々窺得たるが如き心地し無限の幸福と希望に包まれて寓居に帰りぬ」。こんなふうにワグナーに夢中になっている。
 それから1月6日、翌日です。「ドン・パスカーレ」を聴く。それから1月7日には知り合いの所に行って、酒を飲みながらハンガリーの歌に耳を傾ける。8日、「トスカ」を聴く。22日「タンホイザー」を聴く。2月3日「アイーダ」を聴く。2月16日「ローエングリン」を聴く。2月22日「パルジファル」を聴く。マチネを聴く。もうちょっと読みましょうか。3月3日。滝のような大雨の中を「ルチア」を聞きに出かける。カルーソーの歌に感心する。6日「ワルキューレ」を聴く。8日。来週上演のオペラの入場券を買いに行ったけれども、全部売り切れ。10日「神々の黄昏」を聴く。3月16日。16日は「ジョコンダ」を聴きに行くが、やはり切符が売り切れで空席なし。18日、カーネギーホールでロシアのオーケストラ演奏会を聴く。3月22日、音楽の本を読む。それから3月29日、メンデルスゾーン楽堂で催されたヴァイオリン四部演奏会を聴く、(引用:永井荷風『西遊日誌抄』)云々と。
 ちょっとこれは異常としか言いようがない。わたしもヨーロッパではよく行きましたけれども、これほどじゃなかったですね。せいぜい1週間に1度ぐらいで。熱狂的に彼は音楽に打ち込みオペラを聴いているわけですね。荷風という人は、改めて引用しませんけれども、ほんの微細な音、日常の音に関して非常に耳のいいことが分かります。ちょっと読んでみましょうか。これは明治36年の『夢の女』の中にあるのですけど……。

(朗読)雨戸を閉忘れた小窓の外には、蕭条な雨の声、小さい庭の方には落葉の音。そして時々は、向河岸の橋を渡る通行人の下駄の音と、遠からぬ待合の三味線が、折々の風の具合で断続して聞こえる中に、淋しい冬の夜は自然と身に迫るように静けくなってくる。(略)船頭の家族が酒に酔って高声にいい罵っているやら水に臨んだ人家ではまだ大方裏の窓を明けたまま、やはりこの明月を賞しているのであろう、意気な音締めの三味線を弾いている処もある。向こうの方からは同じ早船の船頭が、最早やお客を廓へ送り込んだ空櫓を押しながら、摺れ違いに、その唄うて来た船歌の声をやめて互に言葉を掛け合って行き過ぎるなど、辰巳の昔は如何様であったろうかと何とはなく、一種捨てがたい風情を覚えさせる。
(引用:永井荷風『夢の女』)

もっとあるのですが、長くなりますからやめますが、こういうふうに非常に耳のいい人であるということと、それから今申し上げたように音楽に関する非常に強い前進的な関心があったということが彼において着目すべき点だろうと思いますね。
 ただ問題は、日本の音楽がいわば線でありメロディであったのに対して、ヨーロッパの音楽はハーモニーである。そういうヨーロッパの音楽の持っている、西洋音楽の持っている構築性というのかな、音楽を建築する。そういう表現の一番基本的な本質は、容易にこれは日本の文学の中には生かしきれていないわけですね。ただ、非常に耳がいい。そういうことは分かる。これは荷風に限らず上田敏に限らず、藤村にもいえることだし、さらに石川啄木にはやはり、耳の良さを感じさせるところがありますね。例えば『一握の砂』の中にあるのですけれども。

(朗読)出しぬけの女の笑ひ 身に沁みき くりや厨に酒の凍る真夜中 
壁ごしに 若き女の泣くをきく 旅の宿屋の秋の蚊帳かな
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ
うたふごと駅の名呼びし 柔和なる 若き駅夫の眼をも忘れず
(引用:石川啄木『一握の砂』)

あるいは、これは恋人じゃないのだけれども、知り合いの女性のことを思って作った歌、『一握の砂』の中にあります。

(朗読)かの家のかの窓にこそ 春の夜を 秀子とともにかわづ蛙聴きけれ            (引用:石川啄木『一握の砂』)

彼のいくつかの歌あるいは詩を読んでも、これまた非常に耳のいいことが分かるわけですね。ただ彼の場合はそれを超えて、音楽を自分の詩あるいは小説の中に生かす、そういう表現のきっかけを作ることが非常に難しかったような気がする。結局石川啄木においては、さっき申し上げたワグナー論というふうな、実に思い切った評論に至るんだけれど、どうもそうはならないですね。こういうところにだんだんと、音楽と文学という問題の、非常に日本的なドラマの特質が浮かび上がってくるわけです。
 別の詩人の場合、例えば高村光太郎は藤村よりちょっと年下ですけれども、彼の有名な詩がありますね。「ラコッチイ マアチ」という、ベルリオーズですね。だれかが指揮しているのを聞きに行った。ある音楽演奏会の印象を、これだけ息の長いよく響く言葉の流れに乗せた例はまれなので、聞いてください。「ラコッチイ マアチ」。

(朗読)満ちあふれた聴衆は静まり返っていた。餌をねらう黒豹のしずけさ、電流の静寂、薄気味わるい無風帯の観覧席の人の海に、あいくち匕首のように鋭く光る数千の眼だけが、今バアトンをあげたベルリオ(ベルリオーズ)の後姿にぎりぎりと集中した。暫く手をあげたままオーケストラを見回していた彼、咽喉のはれてつまったベルリオは、この時思いがけなく静かな四拍子のバアトンを下ろした。
いきなりフォルティッシモを予期していた聴衆は勝手がちがった。聴衆はあたまの上に異様な不安のさざなみが伝播した。しかしややゆるやかに轟きわたるトランペットは、その朗らかさと堂々たる微風とで聴衆の動揺をおさえつけた。五秒、十秒 トランペットの名残の響がはるかに空へ消えうせるかうせぬ間に旋回した全オーケストラは足並早く、しかも優雅にこなたを向き、遠い夢をのせたメロディーが蹄を鳴らして駆けて来た。わかわかしいフルートと手堅いクラリネットとが連れ立って、銀鋲うった鞍にまたがりながら緑の山の出鼻にあらわれた。弦楽器の弾力あるピツィカートは、リトムを切って隊伍の角々をすくい上げ、縫いからげ、鋼鉄のようにつよく、また枝から枝へと飛びかわす小鳥のように身がるく、金いろの小さい花をちりばめながら、歯切れのいい錯落の美を描き出す。何処からともなく爽やかに顔をうつ祖国の風、聴衆は身を固くしてしんとしていた。
緊張し切った楽師等の神経は、已みがたい勢いにかられて天空の軌道を走り、あらゆる楽器は生きた有機体となって、空中に不思議な象形文字をえがくバアトンを包んで鼓動した。最後のピツィカートのはねる刹那、たちまち吹きあてる低音熱気のつむじ風につれて、後列のサンバル(シンバル)がうつ果断な一撃。局面は急転して、手袋は投げられ、鞘ははらわれ、おお遂にさんぜんと姿をあらわしたラコッツィの数万の魂の声々。その息吹、そのうなり、うち寄せる波は砕けて引きかえすと見るまに、たちまち水煙をあげて襲いかかる。その波瀾をくぐって出没する炎に酔ったサラマンドラ。弦楽器は管楽器を追い、飛び越し、飛び越され、はね、うねり、怒り、よろこび、離れ、合い、三たび旋転して絶壁にのしかかり、やがて逆まく巨大の滝となって無限の深みにとどろき落ちる。最低音部の底に無数の精霊のうめきもがく、もうもうたる混沌の幾秒。おうその時遠方から沸き起こる濃霧の奥の大太鼓。たちまちほとばしり出る確信のラッパ。昂然たる額をあげて急坂をかけのぼる見渡すかぎりの精鋭、きらめくもののきらめき、相撃つものの騒擾、天の声を人間にささやく永遠の浄火、叫喚は全オーケストラから爆発して、楽堂の空気に渦まき、我を忘れた聴衆はものおそろしい拍手と足ぶみとに狂い立った。あらゆるその一楽音は彼等の血の一滴であり、あらゆるそのリトムは彼等のいのちのリトムであった。彼らは自己そのものの声が、今雷鳴のように轟き渡っているのを聞いた。マーチの響を圧倒する聴衆の歓喜と激越。ベルリオの髪の毛はむしろ恐怖にさか立った。
(引用:高村光太郎『道程』より「ラコッチイ マアチ」)

一つの演奏会場の持続を、こういう形で詩にしたというのはちょっとないんじゃなかろうかと思いますけどね。それが今お聞きになって、私の朗読でもお分かりと思うけれども、非常に野太い、底深い、しかも生き生きしたリズムに乗って流れている。流れそのものの中に光太郎が身につけた音楽が、非常に生き生きと生きているような気がするんですよ。
 光太郎にはもう一つ、バッハのブランデンブルグ協奏曲で、これは演奏会じゃありませんけれども。光太郎のほかのことは話すのをやめまして、詩だけ聞いてください。「ブランデンブルグ」。これは戦後、戦争中の自分の作品と一種の悔恨にあふれて自分を岩手の花巻のそばの山に自己流謫(るたく)をしましてそこで1年間暮らすんですね。この間行ってきたけれども、本当におんぼろの小屋です。そのいろりのそばで暮らしている。そこでこんなことを。

(朗読)岩手の山々に秋の日がくれかかる。完全無欠な天上的なうらうらとした一八〇度の黄道に、底の知れない時間の累積。純粋無雑な太陽が、バッハのように展開した、今日十月三十一日をおれは見た。「ブランデンブルグ」の底鳴りする岩手の山におれは棲む。山口山は雑木山。雑木が一度にもみじして、金茶白緑雄黄の黄、夜明けの霜から夕もや青く淀むまで、おれは三間四方の小屋にいて、伐木丁々の音をきく。山の水を井戸に汲み、屋根に落ちる栗を焼いて、朝は一ぱいの茶をたてる。三畝のはたけに草は生えても、大根はいびきをかいて育ち、葱白菜に日はけむり、権現南蛮の実が赤い。啄木は柱をたたき、山兎はくりやをのぞく。けっきょく黄大癡が南山の草廬、王摩詰が詩中の天地だ。
秋の日ざしは隅まで明るく、あのフウグ(フーガ)のように時間は追いかけ、時々うしろで小もどりして、又無限のくりかえしを無邪気にやる。バッハの無意味、平均率の絶対形式。高くちかく清く親しく、無量のあふれ流れるもの、あたたかく時にはをかしく、山口山の林間に鳴り、北上平野の展望にとどろき、現世の次元を突変させる。
おれは、自己流謫のこの山に根を張って、おれの錬金術を吸尽する。おれは半文明の都会と手を切って、この辺陬を太極とする。おれは近代精神の網の目から、あの天井の音に聴こう。おれは白髪童子となって、日本本州の東北隅、北緯三九度東経一四一度の地点から電離層の高みづたいに、響き合うものと響き合おう。バッハは面倒くさい岐路を持たず、なんでも食って丈夫ででかく、今日の秋の日のようなまんまんたる、天然力の理法に応えて、あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。バッハの蒼の立ちこめる、岩手の山々がどっぷりくれた。おれはこれから稗飯だ。
(引用:高村光太郎『典型』より「ブランデンブルグ」)

先ほど聞かれた「ラコッチイ マアチ」は『道程』の中に書いた初期の詩ですけれども、今のは戦後のですね。その間にも音楽を聴いたままの描写じゃないけれども、光太郎の中に音楽が生きているということは、非常にはっきりと感じ取っていただけるんじゃないかと思います。
 こんなふうにですね、音楽が小説家にも詩人にとっても、当時詩人に強いけれども、いろんな表現の細部にまで染みとおってくるようなことがあるんですね。例えば、光太郎よりちょっと年下で宮沢賢治の詩をお読みになれば、これは絶えず流れ動く音楽性がすぐお分かりになるだろうと。あるいはまた草野心平の詩をお読みになれば、これまた草野心平独特のあの蛙語をお聞きになるだけでも、草野さん独特の音楽を感じられると思うんですね。あるいは中原中也の、心平や賢治のような音楽じゃないけれども、まるで子守歌のような、童謡のような、民謡のような不思議な哀愁のこもった、悲しみにあふれた音楽を、これまたはっきりと聴き取ることができると思いますね。
 そういう形で音楽は、文学者の中に入り込んでいくのだけれども、わたしは特に非常に耳のいい作家の一人として、梶井基次郎という人を思い出すんですよ。これは例えば、梶井の『城のある町にて』という、これは散文詩のような短い文章をまとめた作品ですけれども。城のある町から、丘からちょっと下を見下ろしているんですけれども、こんなふうに。山のほうから、後ろ側のほうから下を見下ろしているんですよ。

(朗読)見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸声を出してみたいような気になるのも同じであった。
息苦しいほど妙なものに思えた。
夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。−ちょうどそれに似た気持でえたいの知れない思い出が湧いてくる。「ああかかる日のかかるひととき」「ああかかる日のかかるひととき」いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。−
「ハリケンハッチのオートバイ」「ハリケンハッチのオートバイ」先ほどの女の子らしい声が峻の足の下で次つぎに高く響いた。丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音が聞こえていた。この町のある医者がそれに乗って帰ってくる時刻であった。その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我がちに「ハリケンハッチのオートバイ」「ハリケンハッチのオートバイ」と叫ぶ。(略)
三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。                                     (引用:梶井基次郎:『城のある町にて』)

しんと静まった中でも響いている音、響きが非常に正確に、直接にとらえられているような気がいたしますね。違うものがあります。今のちょっと前だけれども……。

(朗読)西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆いをした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が、−もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。次つぎ止まるひまなしに、、つく、、つく法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやっているようだな」ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗ってきた。「チュクチュクチュク」と始めて、「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが、「チュクチュク、オーシ」になったり、「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって、「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出てくる。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わってジーに移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
(引用:梶井基次郎:『城のある町にて』)

なかなかこうは書かないですよ。聞いていると、まさしくそのツクツクホウシというセミが秋の終わりぐらいになって、こういう、ちょっと町外れの森閑とした所で鳴いている。その音に関する、さえにさえた梶井の耳は、お感じになれるんじゃないでしょうか。           
 やはり梶井に、音楽会の印象があります。これは「器楽的幻覚」。梶井は大変音楽好きで、友達の思い出によると、よくスコア、楽譜を巻いて手に持ちながらシューベルトの「ドッペルゲンガー」らしいですけれども、歌なんか歌ったりした。ほとんど必ずと言っていいほど、毎日のように音楽会に出かけたらしい。楽譜も読めたらしいのですけれども。それがあるヴァイオリニストの演奏会を聴きに行った時。長いですから、こんなふうに途中から抜粋ですが。

(朗読)演奏家の白い十本の指がある時は泡を噛んで進んでゆく波頭のように、ある時は戯れ合っている家畜のように鍵盤に挑みかかっていた。それがときどき演奏者の意思からも鳴り響いている音楽からも遊離して動いているように感じられた。そうかと思うと私の耳は不意に音楽を離れて、息を凝らして聴き入っている会場の空気に触れたりした。よくあることではじめは気にならなかったが、プログラムが終りに近づいてゆくにつれてそれはだんだん顕著になってきた。明らかに今度は変だと私は思った。私は疲れていたのだろうか?そうではなかった。心は緊張しすぎるほど緊張していた。一つの曲目が終って皆で拍手をするとき私は癖でたいていの場合じっといるのだったが、この夜はことに強いられたように凝然としていた。するとどよめきに沸き返りまたすーっと収まってゆく場内の推移が、なにか一つの長い音楽のなかで起ることのように私の心に写りはじめた。
読者は幼時こんな悪戯をしたことはないか。それは人びとの喧騒に囲まれているとき、両方の耳に指で栓をしてそれを開けたり閉じたりするのである。するとグワウッ−グワウッ−という喧騒の断続とともに人びとの顔がみな無意味に見えてゆく。人びとは誰もそんなことを知らず、またそんななかに陥っている自分に気がつかない。−ちょうどそれに似た孤独感がついに突然の烈しさで私を捉えた。それは演奏者の右手が高いピッチのピアニッシモに細かく触れているときだった。人びとはいっせいに息を殺してその微妙な音に耐え入っていた。ふとその完全な窒息に目覚めたとき、愕然と私はしたのだ。「なんという不思議だろう、この石化は?今なら、この白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫びだそうとはしないだろう」
(引用:梶井基次郎:『器楽的幻覚』」)

そのほか、いろんな短編でシューベルトの「ドッペルゲンガー」ですとか、あるいはそのほかいろんな音楽が出てきますけどね。彼もまた、驚くべき耳の良さを示してはいますけれども、彼の小説全体が音楽そのものと響き合い、それを内的要素としながら広がっていくというふうにはどうもならないわけですね。荷風に関しても言えるでしょう。藤村の場合も、案外藤村という人は本来は目の人だけれども、同時に音楽に関して非常に感情の深い人でね。例えば、昭和になってから諸井三郎が第2シンフォニーを演奏した時、聞きながら泣き出した、藤村が。それほど感情が激しいのだけれども、しかしやはり彼の『夜明け前』にしても、そこに音楽そのものの持つ意味合い、構造、その表現力ってものと、小説家としての表現力ってものが全面的に応じ合い、つながり合い、支え合っているとはどうも見えない、ということがあると思うんですよ。これは例えば、ドイツのトーマス・マンが『ファウスト博士』という小説を書きましてね。あの中でシェーンベルクの音楽評論を援用しながら、非常に独特の人物構造を見られているということとはちょっと違う。やはりそういうことが起こってくるのは、わが国においても戦後になってくるんじゃないかという気がいたします。
 戦後に書かれたいろんな歌曲。そこでは詩人と作曲家の間にかつてはなかったような、いろんな意味での応じ合いがあるような気がする。例えば武満徹と、谷川俊太郎や大岡信との絡み合い。あるいはまた三善晃と宗左近の絡み合い。詩人に対する作曲家の取り組み方が、単に歌詞をそこから借りるのではなく、もっと内的な響き合い、内的な応じ合いがだんだんと幅広くとらえられてくるような気がするのです。
 例えばオペラの場合もそうですね。戦前もオペラはあったけれども、例えばワグナーに夢中になってもなかなかわが国の作曲家がオペラを作るとはならない。ところが、あっても大変わたしにはつまんないオペラばっかりだったのだけれども。ところが戦後になって例えば、割に最近ですと、松村禎三が、遠藤周作の『沈黙』という小説を素材にしながらオペラを書いた。あるいはまた黛敏郎が、三島の『金閣寺』をオペラにした。あれを聴いてみますと、そこでは単にいわばリブレットとして遠藤や三島を借りたのではなく、そういう作家の言語表現そのものと作曲家の表現意識がもっと内的に絡み合っている。できばえに関する判断は別ですよ。つまんないと思う人もあるかもしれないけれども、大変それは興味深いものだと思いました。
 さらに作家の場合も、いろんな例があるだろうけれども、例えば福永武彦が『告別』という小説を書いた。中編ですからすぐお読みになれますが。これは友人のドイツ文学者をモデルにしたのだけれども、『告別』っていうのはマーラーの「大地の歌」の第6楽章の「Dunkel ist das Leben, ist der Tod!」、「生は暗く死もまた暗い」という、あの「告別の歌」ですね。あの『告別』、マーラーを基本にしながら、それと主人公の死、さらに主人公の娘の死。それから遠い友との別れ。あるいはドイツ人の恋人との別れ。そういう告別を二重三重に重ね合わせながら、それをしかもマーラーの、「大地の歌」第4楽章の「エーヴィヒ」、「永久に」と終わるあの歌に終焉させていく。そういう点で、作家においても音楽との間に、かつてはなかったようなある内的な結びつきがだんだん生まれ始めているんじゃないか。それが小説表現の中にある、新しい可能性を広げているのではないか。そういう多少楽天的な希望をわたしに抱かせるわけです。
 ですから、音楽と文学とのかかわりと申し上げても、これは一面的な一様なものじゃあり得ないので、その音楽家や詩人や作家、それぞれの才能と資質と方向、嗜好に応じて多種多様とありますけれども、これから新しい結びつき、新しい合体がどういう表現、作品を生み出すに至るか、わたしとしては大変それを今楽しみにしております。以上です。1時間半と言われたので、10分くらい時間がありますから、ご質問でもあれば。

○渡辺 ありがとうございます。先生からこのようなお申し出がありました。何か会場の皆様、先生にせっかくですから何かお聞きしたいということがありましたら、どうぞおっしゃっていただきたいのですが。

○池田 東京音楽大学の図書館の池田です。今日お話くださったこととは直接は関係ないかもしれないのですけれども、先ほど先生が最初のほうでヨーロッパ的なメロディと、日本の口語体の言葉がなじまないような、ヨーロッパ音楽が入ってきたころにそういうことがあったということをおっしゃったと思うんですけれども、わたしもそれはちょっと感じていまして。質問したかったのは、話が前後しますが、うちの亡くなった母が若いころ女学校で音楽教育を受けた時に、シューマンの「流浪の民」ですとか、シューベルトの「菩提樹」ですとか、そういう文語体の訳詩を付けたそれを合唱にしたりとか、そういうので音楽教育を受けたという話をよく聞いていたのです。今わたしが読んでも、文語体の訳詩を付けた音楽が、音楽教育に果たした役割がかなり大きかったのではないかと思うのです。うちの母は昭和の時代の戦中の教育ですが、そういう文語体の訳詩を付けて、日本語で歌わせて音楽教育をやっていたということは、いつごろから啓蒙活動として始まって、戦中まで行われていたんでしょうか。

○粟津 知りません。調べてなくて、そういうこと。ただね、今あなたがおっしゃったように、僕が少年のころにわたしの母もおばと集まって、「流浪の民」を歌ったり「菩提樹」を歌ったりしておりました。それから文語体の話だけれども、詩の上では口語がまだわれわれの中に、十分音楽的に熟してないのではないかと思いますけどね。だから聖書の翻訳でも最近口語訳聖書ってありますでしょ。はるかに文語聖書が文体としていいんですよ。だから間の抜けたようなまどろっこしいような、「初めに言葉がありました」なんて猫なで声のせりふ、嫌いなんですよ。「初めに言葉ありき」のほうがはるかにいいということがありましてね。それに代わる新しい現代口語が、つまり昔の文語体の文体が持っておったような、ああいう凝縮した強さと力を持つようになったほうがいいと思いますけれど。いつまでも文語体じゃ困りますからね。
 例えば上田敏の場合も、最初の『海潮音』は文語体でしょ。ところが『牧羊神』という訳詩になると、口語体を取り入れていますから。非常に見事な言語表現を作っているから、これは不可能とは言いませんけれども。ただあの猫なで声は勘弁していただきたいと思うのですよ。石川啄木なんかもシューベルトの「(ドイツ語・不明)」っていうあれに、文語体だけど訳詩を付けていますよ。だからそういうことちょっと、僕には学者じゃないので分からないんですよ。だれか調べてるでしょ、そういうことは一生懸命。どうしてこう現代口語っていうのは、変にヒステリックで鈍くて嫌な言葉になっちゃったんですかね。

○市川 国立音楽大学の市川と申します。高村光太郎の詩を不勉強で初めて聞いてすばらしいと思ったのですが、あの時代のすごい熱気と、それから福永武彦さんの小説、まだ読んでないんですが、もしかしたら今の現代作家のあこがれの意識が、あるいは言語の音楽に挑んでいくときのテンションが、光太郎さんの時代、例えば萩原朔太郎の時代のほうが高いような気がするんです。

○粟津 若干あるでしょうね。僕は福永さんと親しかったから、前後の具体的関係を知っていますが、ハラダなにがしというドイツ文学者と親交があったけどね。彼のように、やっぱりほかにいないんじゃないですか。音楽をああいうふうに取り込んでいって、それからマーラーの「生は暗く死もまた暗い」という言葉と、主人公の3度繰り返される告別ってものと重ね合わせるっていうことをやったのは。だれかいますかね。あんなこと思いつかないですよ。死んだ篠田ハジメとかって、これがばかに音楽好きでね。篠田とか辻邦生とか好きでしたけど。あと大江がちょっと好きかな。あまりいません。聴きに来ないやつはやっぱりだめ、と思いますけど。

○市川 それに関連してぜひ福永先生を読んでみたいと思うんですけれども、今おっしゃりかけていた、萩原朔太郎にしても自分でマンドリンクラブ作るとか、音楽についてあこがれが強いから、例えば啄木にしても聴いてない音楽で燃え上がるグループとかというのが、今の作家の中にあるんでしょうか、そういう。一人ですばらしい方もいらっしゃると思いますけど。

○粟津 思いつかないな。詩人はあんまりいませんね。個人的には谷川と武満さんと親しかったからね。小説家で音楽表現との間に、自分の小説方法論とを内的に結びつけるほど音楽と敏感になった人は、いないんじゃないかね。残念なことですよ。

○ 渡辺 では今日はこれで終わらせていただきます。先生に感謝の拍手をお願いいたします。

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